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はだしの一人旅

今日まで2泊3日、名古屋で一人旅をしていた。
このnoteは、帰りの夜行バスで書いている。

一人旅について思うところがあり、結構長文のnoteになった。
孤独になりたい人、なれない人、或いはなるのが怖い人。
あなたに読んでほしい。

一人旅ができる人=孤独じゃない、のか?

さて、言わずもがな、私は一人旅が好きだ。
ただ、その「自らが好きでやってること」が、何やら過大評価されてるぞ…?と思うときが時折ある。
例えばこんなふうに。
「一人旅できるなんてタフだね…私だったら、寂しくて絶対に無理」
この、相手の言葉の裏側には、私に対する「一人旅の間に寂しさを感じることはない」というイメージが潜んでいる、かと思う。

じゃあ、実際のところの私は、どうなのか。
誰とも連絡を取るまいと決めていた、4泊5日の台湾旅行のときは、2日目の夜にあえなくギブアップ。半泣きになりながら、怒涛の鬼電攻撃を友人にかました。
去年の春の大阪旅行では、せっかく一人部屋を予約したのに、楽しそうな外国人の方々のお誘いに負けた。完敗だ。彼らに交じって近所のバーに行き、夜明け近くまで話し込んでしまった。
常に「誰にも干渉しないし、されないぞ」という鋼のメンタルで逞しく一人旅をしてると思ったら、大間違いである。私は、寂しがり屋だ。

そんな私に向けられる質問があるとすれば
「何でそんなに孤独な思いをしてまで、一人旅を続けるの?」だろう。
私は、それに対しては、月並みだけど「何があろうと、一人を守り抜かなきゃ出来ないことがある」と答えている。もう少し、詳しく話そう。


思考と選択を明け渡さない

何かがあってもなくても、悩み事は尽きない毎日。私たちは少なからず、「自ら考え、選ぶ」ということをするよう求められる。それも、一人で。

もちろん、考えること、選ぶことに、他人を参画させることは出来る。十人十色の事情で、思考と選択がままならない人のために、こうした互助の関係は残したい。もしくは、複数人の問題だったら、とうぜん共同で意思決定をすることが求められるだろう。
でも、個人の思考と選択、その行為自体を丸投げすることは、自分の大切な領域を、根こそぎ明け渡すようなことに、近い。

そして、そういった「領域の権限譲渡」は、多くの場合、それなりに近い関係の他者に対してなされる。
家族、友人、上司、同僚、恋人。
それらの気の置けない人に対して、私たちはときに、何らかの厄介事を「代わりに考え、選択する」ことを任せる。
そうすると私たちは以後、そのことについて何もしなくても良い。任された人がやってくれるからだ。それはそれで、きっと楽だ。けれどもどこかに、虚しさが残る。


こうやって、意思決定における砦を明け渡すうちに、やがて私たちは、無意識のままに多くのことを諦めかねない。
慣れ親しんだ人といるうちに、気付けば無くなってるものもある。
だからこそ、誰も、自分の考えや選択そのものを引き取らない、引き取りようがない、そんな場所に身を置くことが必要な瞬間がある。

頼れること=いつだって一緒にいること、ではないと思うのだ。ふたつの間に入る記号は、せいぜいNEARLY EQUAL(≒)くらいが関の山じゃなかろうか。
だけど私たちの周りには常に、例の「それなりに近い関係の他者」がいる。これじゃあ、「NEARLY EQUAL」じゃない。

個人の思考と選択の瞬間に、いつも一緒だよ、なんてことを他人にも自分にも言わせないために、私たちは一人になるのだ。



裸足の自分、ひとりで旅する

冒頭の、寂しさ・孤独の話に戻ろうと思う。

一人でいるとき、多くの人は戸惑い、怖気づく。でもその理由を掘り下げてみると、周りから人がいなくなったことによって、ある種の誤魔化しが利かなくなることが根っこにあったりもする。

私たちは普段、望むか否かにかかわらず、多くの人との互助関係を結んでいる。深く関わり合う人との関係であればあるほど、互いに下駄を履かせ合うこともあるだろう。それは必ずしも責めを負うことではなく、一つの生存戦略として必要なときもある。

ただ、一人旅をするとそのような互助関係は無くなり、自分一人で出来ることだけが残る。それは不安である一方、非常に明快な状況をあぶり出してくれる。出来ないことは出来ないのだ。だって、普段であれば下駄を履かせてくれる人が、いないのだから。

上司は「君なら仕事を続けられるよ」と言った。
でも一人になって考えると、この会社で働き続けることはできない、と冷静になれた。
親は「あなたはとてもしっかり教育したから、きっとどこに行ってもいいお嫁さんになれるわ」と言った。
でも、一人になって考えると、そもそもお嫁さんになりたくない自分がいた。


下駄を脱いだあなたには、こんなことも、起こるかもしれない。或いは、もう起こっているかもしれない。
そのときのあなたはきっと、まっさらな裸足で旅に出ている、ひとりの人間だ。


裸足は痛い。小石を踏みつければ、血も出る。

それでも、自分の本来の目線で物事を見据え、歩きづらい履物に苦しむことなく動ける。その意義は、きっとあるはずなのだ。


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