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スパイスの記憶

「Hello…」
震えるようなしゃがれた声といっしょに、『カチャカチャ』と食器がぶつかる音がドアの向こう側から近づいてくる。
その三畳程しかなくベッドを置くのが精一杯の小さな部屋で寝込んでいた僕に、パーキンソン病が発症し始めているインド人のモーガンさんは、震える手でホットチョコレートをこぼしながら持ってきてくれた。

彼はインドからイギリスに渡ってきたファーストジェネレーション、つまり一世である。決して富裕層ではないが、どのような苦労をして、その地で不自由なく生活することができる成功を手にしたのかは知らないが、ロンドンのゾーン4に一軒家を持ち、メルセデスに乗り、スイス人の奥さんと二人で暮らしていた。
息子と娘がいるが既に子ども達は独立しており、その息子の紹介ということで、余っている部屋を、行き場がなくて困っていた僕に貸してくれた。

これは、もう20年以上も前の話だ。
当時の僕は、イギリスに来て半年、ロンドンに移り部屋を借り数ヶ月たったばかりだったが、家主と折り合いが悪く、数日間のうちに部屋を明け渡さなければならなかった。
当たり前のことだったが、ロンドンには頼る知り合いも友人もいなかった。
今思えば、それなりにピンチな状況だった。

そのようななか、物置小屋だった部屋を片付け、週に35ポンドで身元もわからないアジア人の僕に部屋を貸してくれたモーガンさんは、あまりにもみすぼらしく、お金の無さそうなその姿に同情したのだと思う。もしかしたら、イギリスで苦労した若かった頃の自分自身を、そのボサボサ頭の目の細い青年に重ね合わせていたのかもしれない。
僕に部屋を貸してくれた理由を、初めは、そのように同情か何かと考えていた。

それを証拠に、ある週末、僕にきちんとした服装をしろと言い、奥さんの出身地であるスイスの人たちの集まりに、僕を連れていった。そこでは、僕に友達を積極的に作るんだといって、僕の手首をがっちり掴み、談笑している人の輪に無理やり連れていき、会う人々みんなに挨拶と握手をさせることに、彼は一生懸命だった。
そして、「Food is free」と言って僕を誘った言葉通り、無料の立食の食事会場に連れていった。僕のことを「My son」といい、食事の列に並ばせ、人見知りの僕に次々と知り合いを紹介した彼は、遠くの国からきた仮の息子に何かを教えようとしていたのかも知れない。
決して愛想もよくなく、あまり笑わないモーガンさんだったが、このように僕のことを気にかけてくれていていたことは確かだった。

僕といえば、異国での安心できる環境を手にすることができ、ある種の緊張が緩んでしまったのか、高熱を出して寝込んでしまった。そのような僕に、震える手でホットチョコレートを持ってきてくれた彼は、これを飲めば元気になると言って、僕の部屋にこぼれたカップを置いていった。それが本当かどうかは分からないが、二日後には体調を戻した僕を、モーガンさんは自分達の夕食に誘ってくれた。

食卓にいくと用意されていたのが見たことのない一皿だった。今思うとそれはカレーなのだが、中に入っているのはよくわからない臓物のような塊である。サラサラの焦げ茶色のスープに何かの塊。ご飯ではなく、クスクスのようなものが添えられていた。
それは、見たことのない食べ物だった。
当時の僕は、食についてかなり感覚が鈍く、興味がなかった方だと思う。そのこともあり、イギリスでも、缶詰のパスタかトマトケチャップ味のベイクドビーンズのどちらかを、毎日食べて生活していた。

その様な日々に登場したのが、サラサラの焦げ茶色のスープに何かの塊が入った一皿である。そして、米ではなくブツブツの物体。
当時の僕にはカレーなどと想像すらできない。
そもそもカレーといえば、ゴロゴロとした野菜と肉の切れ端が入った黄色だか茶色だかよくわからないドロドロした物体がご飯の上に乗ったものである。見た目から驚きである。

もう味は思い出せない。
その食事の風景を思い出すことすら怪しい。
ただ、その見た目と味、香りに衝撃を受けた感覚だけが残っている。
それが、本格的なスパイスとの出会いだった。
まさしく、食は未知との遭遇だ。

そんな驚きと、久しぶりの平穏が重なりあう日々のなか、紙パックの茶葉から煎れた紅茶を飲みながら、彼は子供のことを話し始めた。
もちろん、この部屋を紹介してくれた息子のことは知っていた。
最近、彼女が部屋を出ていってルームメートを探していたこと。そして、その部屋を借りられないか、スーパーの掲示板からはぎ取った小さなメモを頼りに、僕が彼のアパートを尋ねたことが、モーガンさんと知り合うきっかけだった。
息子の部屋には、彼女が置いていった青いハイヒールが部屋の隅に置いてあり、ルームメートが忘れていったんだと、僕に説明する彼の目が少し悲しげだったことを覚えている。
そして、僕にとっても身近な存在である彼の息子のことを話題にした後、カップの紅茶が殆んどなくなった頃だった。

人差し指と中指でトントンとテーブルを叩きながら、口数少なく、独立したということだけ聞いていた娘のことをぽつりぽつりと、僕にもはっきりとわかる単語と発音で話し出した。

彼女は日本に住んでいる。
5年以上音信不通。
住所すら分からない。

そのような大事な話を『家族の問題』だと、何となく呟くように話した。

本当に今になって思うと悲しすぎる告白である。
身元もよく分からないアジアの片隅から来た青年に、こじらせてしまった親子関係をなぜ話したのか。
彼はインドから移住してロンドンに居を構え、そして大事な娘が自分の故郷より遠い日本へ渡っていった。

時代はインターネットの普及する少し前。

日本への電話といえば、近所の小さな売店で国際テレフォンカードを買い、なん桁もあるピンナンバーを電話機に打ち込む。運がいいと何分も話せるが、悪いと数十秒で切れるようなものを頼りにしなければならない。
そんな、時代。
日にちが変わるほど飛行機に乗らないと着かないような遠くにある、アジアの小さな国。
そこにいる音信不通の娘。
探す方法は想像すらできない。

きっと僕に優しくしてくれたのは、彼の娘が日本にいることが大きな理由だったと思う。僕という日本人が彼の前に現れたのに、何かの縁みたいなものを感じて、助けてくれたのだと思う。

ただ、そんなことも感じることが出来ないほど僕は未熟で子どもだった。
その様な大事な話を、聞き流した。
適当に相づちを打った程度だったと思う。きっと今なら、最後の連絡先や名前を正確に聞くとか、何か考えたと思う。
そして、できなかったとしても日本に帰ったら、彼女を探す約束をしていたはずだ。
それはきっと、彼の心が一瞬でも安らぐことができるように。

数年過ごしたイギリスでの日々は、当時の僕にとってはスパイスの効いた日々だったのかもしれない。
ただ今思い返すと、恩人であるモーガン夫妻に何一つ恩返しせず、日本に帰ってきてからも連絡もとらずにいた自分もいる。
悔いが残る出来事が、そのにあったことは確かだ。

人生には後悔がつきものである。
強く火を入れすぎたカレーの鍋は、側面から先に焦げる。はじめはカレー本体には大した影響は及ぼさないが、何かの拍子に、側面の焦げが中に入るとカレーは部分的に黒くなってしまう。
ごまかして混ぜてしまえばそれで済むものだが、微かに苦味が感じられる。無論、食べる側は気がつかない。ただ、それを提供した本人だけが、その苦味の味を知っている。そして、焦げを無視して誤魔化した自分の行動を後悔することになる。

結局、あれ以来、訪れることがなかったロンドンに、数年前に行くことがあったが、散々悩んだ挙げ句、彼の家には足が向かなかった。
ノーザンライン、ウェストフィンチリー駅のすぐ近く、公園の前、角の家だ。

思い出はきれいであれ、後悔が混ざった少し苦味のあるものであれ、そのままにしておくものだと思う。
ましてや黒い焦げは、かき混ぜて隠したり、誤魔化して薄めたりする必要はない。
自分自身で、全ての事柄を素直に受け入れるだけだ。

ロンドンで過ごした日々や衝撃的なスパイスとの出会いは、僕が今カレー屋を営んでいることとは、全く関係のないことだ。偶然である。
ただ、あれから長い年月が経ち、すべてのことがあやふやな思い出となった今でも、あのオレンジ色の部屋の電灯と、赤と白のチェックのテーブルクロスの上に用意されたスパイシーなカレーの香りを覚えている。
そして、「family affair」『家族の問題だよ』と呟いた恩人のしゃがれた声は、僕の耳に残ったままだ。

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