キメラのいた系譜 第二部 7

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 最後に戦闘に巻き込まれてから五日後、彼とキタハルは千葉の銚子に到着した。夕暮れ時だった。空全体は驚くほどの鮮やかさでオレンジ色に染まっていた。銚子市は海に面していたはずだったが、二人が辿り着いた場所は内陸寄りで海から遠く離れていたために、少しも潮風を感じることはできず、ただ辺りの空気が妙に湿っぽいだけで全くの無風だった。今やキタハルの唯一の肉親らしい彼女の伯父は、廃校になった県立高校の校舎に暮らしているらしかった。それも、血の繋がっているわけでもない、「縁のある者たち」と互い称する男たちと共に、そこで奇妙な共同生活を送っているらしかった。夕暮れの中、くたびれたエンジンを唸らせ、長い登り道をスクーターで駆け上がっていった。登り道の両側には二階建ての民家がひしめき合うように並んでいたが、人の暮らしている気配はほとんど感じられなかった。住民は暮らしていても、どういうわけか誰もが自らの気配を消し、息を殺すようにして暮らしているように思われた。スクーターを走らせているときに、そんな町の雰囲気に無頓着なように道を歩いていたのは、黒い猫一匹だけだった。一つの鳴き声も上げず、民家と民家の間の影の中へ溶け込むようにして消えていった。坂を登り切った頂上に、彼女の伯父と、他の男たちの暮らす県立高校があった。校門を前にスクーターを降りて、誰もいない広大なグラウンドを二人で、彼はスクーターを引きながら、校舎に向かって歩いて行った。スクーターを校舎の脇にあった自転車置き場に停めたところで体の中から弟が、「後ろに気をつけて」と言った。背後から「よく来たな」と男の声で話しかけられた。振り返ると、口元の髭がぼうぼうに伸びた、しかしまだそこまで年老いているわけではないであろう、おそらく三十代ほどの、全身に紫色の孤独のオーラを纏った男が突っ立っていた。「伯父さん」とキタハルが、汗と土埃にまみれた、しかしちっとも美しさの損なわない笑顔を見せながらその男に呼びかけた。
「その顔、まるで海賊の黒ひげみたいよ」
 キタハルの伯父はそれを聞いて、「まぁ、実際そんなものだからな」と笑った。そして、彼の方に目を遣ると、まるで自分の愛しい息子を見るような優しい目つきになりながら、ゆっくりと言った。
「君が、彼女をここまで連れて来てくれたんだね」
「ええ、そうです」と彼は緊張しながら答えた。しかし、すぐに続けてこうも言った。
「でもそれは、彼女に頼まれたからやったことではありません――俺はただ、彼女と共に居られればそれだけで良かったのですから」
「それは――嬉しいことだ」
キタハルの伯父は、全身の孤独のオーラをいっそう深めながら言った。
「とても嬉しいことだよ。それは」
 二人はキタハルの伯父に案内され、薄暗い校舎の中へと入っていった。廃校らしく校舎の外見は酷いものだった。校舎の壁には彼らが生まれる前に貼りつけられたと思われるチューインガムの、それが壁の一部と化したような黒い汚れがあちこちにあり、所々には致命的とも思えるような長いひび割れが入っていたが、しかし中に入ってみると、校舎の内側はちゃんと清潔に保たれていることが分かった。三人とも土足で廊下に上がったが、昇降口の前には硬い繊維の折り込まれた深緑色の大きなマットが敷いてあって、中に入る前に、そこに靴裏を力強く擦りつけて、しっかりと土を落とすよう指示された。明かりとしては夕日の光が差し込むだけの薄暗い校舎の中に入ると、廊下の窓ガラスは一枚も割れてはいなかった。廊下を歩いている途中に何人かの屈強な男たちとすれ違ったが、誰も三人には気にも留めなかった。キタハルの伯父と一瞬だけちらと目を合わせると、その後は何も言わずにただそそくさと通り過ぎていった。彼とキタハルは教室の一つに通された。黒板はあったが、そこには机も椅子も一つも無く、木目の床の真ん中にはシンプルな柄の、薄っぺらいカーペットが敷かれているだけだった。そこが彼とキタハルに与えられた部屋だった。「悪いが、ここしか部屋が空いていないんだ。他の部屋には色々と物を置いていてね」キタハルと一晩を同じ部屋で過ごすとなったところで、今や彼には少しの動揺も無かった。以前までの彼であれば、たとえ壁一枚隔ててでも彼女の隣で横になるなど到底考えられなかったが、しかし今であれば、たとえ彼女と同じ布団で寝ることになったとしても、そのときは自分が全てを紳士的にリードして、彼女に喜びの涙を誘うような、感動的な着地を遂げる自信すらあった。しかしそれを実行しないのは、やはり、「もっと相応しい場所、もっと相応しいときに」と心に決めていたからだった。三人で靴を脱ぎ、しばらくカーペットの上に座っていた。キタハルは、二週間の旅の内でどれだけの苦労があったかを、冒険から帰還したばかりの少女に相応しいような面持ちで伯父に語って聞かせていた。そして所々で、一緒に旅をしてくれた彼がどれだけ自分に尽くしてくれたかを語った。その度に彼は、あくまで彼女のための完璧な紳士を目指していたために、「俺がやりたくてやっただけだから」と小さな声で口を挟んだが、キタハルはそっと彼の手を握って言った。
「あなたが居なかったら、私は今頃生きていないのだから」
 若い二人のためにキタハルの伯父はただ黙って聞いていたが、あるタイミングで、窓の外がすっかり暗くなっているのに驚くと、のそのそと部屋から出て行った。しばらくすると、湯気の立ち上る三つのカップを銀のお盆に乗せて持ってきた。「かぼちゃスープだよ」とキタハルの伯父は言った。
「ろくなおもてなしが出来なくて本当に申し訳ない――お腹が空いているだろうが、あいにく我々には物を食べる習慣がなくてね。ここにも、あまり食料は置いていないんだ」
 温かいカップを受け取りながら、彼は全く腹が減っていなかったためにむしろそのスープすら要らないほどだった。しかし、全く口にしないのは無礼に当たるだろうと考えて、一口分だけスープを飲んだ。少しもかぼちゃの味はしなかった。ただ薬臭い、オレンジ色のどろりとした液体にしか思えなかったが、彼は表情を歪めながら、どうにかその一口分を飲み込んだ。カップを銀の盆に戻しながら、彼は欠伸を噛み殺した。その様子を見たキタハルの伯父が、「疲れたんだろう」と労わるように言った。
「今日はもう寝てしまいなさい。ほら、もう今すぐ寝てしまっても構わないから――」
 それを聞いて彼は、「いやいや、そんなわけにはいかないですよ」と笑い、もう一度欠伸を噛み殺した。
「まだまだ、楽しい夜は続くのですから」
「なら、もっとスープを飲むことだ」キタハルの伯父が険しい表情になって言った。
「まだ眠くないというのなら、もっとスープを飲みなさい」
 そこから極めて静かな、同時に、今までにないほどの緊張感の伴う勝負が始まった。彼は一度銀の盆の上に置いたカップを取り上げると、再び口元に持っていった。一口飲むと、まるで揺さぶられたかのような衝撃が頭の内側を襲った。しかしまだ彼は倒れなかった。
「やはり、美味しいですね」
 彼は不敵な笑みを浮かべて言った。キタハルの伯父は彼のカップを覗き込み、たしかにスープが減っているのを確認すると、顔を強張らせながら、「なら、もっと飲みたまえ」と言った。再び彼はスープを飲んだ。それから十秒も経たないうちに、キタハルの伯父は再び「飲みたまえ」と言った。これが何回も続いた。彼はちびちびとスープを飲み続けていたために、なかなかカップは空っぽにはならなかった。一気に飲んでしまえば全てが終わるのが目に見えていた。ちびちびと飲むスープは、じわじわと彼を追い詰めていった。波打ち際で彼は耐え続けた。まるで既に夢の中にいるような、奇妙な形で繰り返される、彼と自分の伯父のやり取りを前にしながら、キタハルもまた緊張した面持ちで二人を見つめていた。不毛な勝負が始まって十五分ほど経ったとき、彼の体の中の弟が、「兄さん、無理をすることはないよ」と声を上げた。
「僕はずっと起きているからね。もしもの時は、僕がちゃんと起こしてあげるよ」
「任せていいか?」と彼は頭をふらふらさせながら言った。「ああ」と弟が答えた。
「正直、前からこうなる気はしていたからね」
「彼女だけは傷つけるなよ」頭をふらふらさせながら、しかし彼は鋭い口調で言った。
「何があっても、彼女だけは――」
 そう言いかけると、彼は老人のようにゆっくりとカップを置いた。天からの操り糸が遂に断ち切られ、全身の力がふわりと抜けた。彼は半目だけ閉じ、そこから白目を覗かせたまま、支えを失った銅像のようにゆっくりと横向きに倒れていった。ごつんという嫌な音がして右の側頭部を強く床にぶつけたが、彼は痛みに呻くこともなかった。薄暗い部屋の中で半開きの白目を鈍く光らせたまま、彼は眠りについた。
「まぁ、よく頑張ったほうだ」
 キタハルの伯父が憐れみの表情を浮かべながら、半目だけ開いて横たわる彼を見つめて言った。
「しかし、これも宿命だ」
 キタハルはただ悲しげな顔をして、隣に横たわる彼のことを見つめていた。これから彼をどうするつもりなのかについて、伯父に問うこともしなかった。伯父は「宿命」と言っていたが、全くその通りだと彼女も思っていた。ただし、悲しみを感じる心だけは決して失ってはいけないと、生前の母親が言っていた教えだけはちゃんと心に留めていた。
「深夜には解剖を始める」と彼女の伯父が言った。
「体のあちこちまで調べ尽くして、いただけるものはいただいて、明日の朝には焼却炉で火葬してやろう」
「せめて――」と彼女が声を震わせて言った
「せめて解剖が始まるまでは、傍にいさせて」
 それを聞いた伯父は、若い女の幽霊を思わせる、ぞっとするような暗い目で彼女の顔を覗き込み、「奇妙なものだな」と言った。
「彼の存在を我々に報告したのも、彼をここまで誘導したのも、全部お前自身なんだぞ」
「わかってるわ」彼女は静かに言い返した。目に涙こそ浮かべなかったが、代わりにその瞳の奥には、伯父のものと全く同じ、紫色の孤独のオーラが蠢きつつあった。母親の教えを守って、それを悲しいと感じる心だけはどうにかしてこの胸に留めようと抗っていたが、全ては時間の問題だった。
「――結局はそれが、私と母さんの宿命だったのよ」
 そう言いながら、彼女はそっと彼の傍に寄り添った。ちょうど深夜になっても、まだ彼の解剖は開始されなかった。薄暗い教室に敷かれたカーペットの上に横たわる彼と、その傍らに座り込んで、じっと彼の半目の顔を見つめている彼女は二人きりで、ただ大人しくその時を待ち続けた。午前二時になってようやく、白衣姿の二人の男が教室に入ってきた。男の一人は注射器を持っていた。覚悟を決めた彼女が部屋から出て行こうとすると、男の一人が引き止めた。
「血を採るだけだよ。解剖はまださ」
 白衣の男二人の一人が、横たわる彼の傍に屈んで、腕に注射針を突き立てた。ゆっくりピストンを引き戻していったが、意外なことに彼の血は、正常な人間のそれらしい鮮やかな赤色だった。事前に過去の事例の報告を受けていた皆はてっきり、緑色の血が出てくるものと思っていた。「おかしいな」と男の一人が怪訝そうな表情をして呟いた。
「しょうがない、もう一本採ってみよう」
 しばらくして、もう一人の男が別室から何本かの注射器をトレイに入れてまとめて持ってきた。それからも彼の体から血を採り続けたが、報告通りの緑色の血はなかなか採れなかった。男たちは辛抱強く、執刀中の外科医にも通ずるような、尊敬に値する集中力を以って彼の腕に注射針を刺し続けた。針を刺され過ぎた彼の腕は、その部分の皮膚がぐずぐずに崩れてきてしまっていた。キタハルは途中で見ていられなくなって、彼の傍に座ったまま、思わず彼の顔からは目線を逸らしてしまった。それからも辛抱強く採血を続け、ついに緑色の血が採れたときは、すでに午前四時前になっていた。男たちが額の汗をぬぐい、安堵の表情を浮かべながら緑色の血を持って引き上げた後も、キタハルは一睡もせずに彼の傍についていた。それから三十分経ってもまだ解剖が始まる気配はなかった。窓の外は薄っすらと明るくなりつつあった。しかし見上げると空はまだ十分暗く、幻とも見えるようないくつかの赤い星が瞬いていた。
「もしかしたら、朝を迎えられるかもね」
 キタハルが言った、その時だった。腹の底まで響くような地響きと共に、教室の床がぐらぐらと揺れた。地震だ、と軽く身を構えたが、揺れは一瞬で収まった。騙されたような心地になっていると、続いて、廊下を反響して遠くから男の叫び声と激しい銃声が響いてきた。キタハルは顔を強張らせて立ち上がった。それと同時に教室の引き戸が勢いよく、シュパン、と音を立てて開かれた。扉が縦枠に当たってライフルを撃ち鳴らしたような音が教室中に響き渡った。そこにはさっきの注射器の男が立っていた。男はもう白衣を脱いでいた。全身真っ黒い服を着て、黒々とした軽機関銃を左手に持っていた。顔中から冷や汗を流し、苦悶の表情を浮かべながら目をぎらぎらと光らせ、肩で息をしながら喘ぐように言った。
「自衛隊の奴らが来た。そいつを担いで逃げるぞ!」
キタハルは顔を強張らせたまま、「もう無理よ」と言った。
「あいつらが彼を救い出しに来たということは、もうそういうことなのよ」
「お前の伯父の命令だぞ!」男は怒鳴った。横たわる彼の元に駆け寄り、片腕を自分の肩に回した。
「口を利いている暇があったら、お前もさっさと逃げろ!」
 廊下では激しい銃撃戦が行われているようだった。銃声が絶え間なく廊下に響き、吐き気の催すような火薬の匂いが教室まで達しつつあった。
「モールのテロに巻き込まれたあのとき――彼の死体が裂けて、中から化け物が出てくるのを初めて見たときと、全く同じ感じがする」
 キタハルは諦めきったような表情で言った。
「今、一つの未来が決まった気がする――私にもあんたにも、もちろん伯父さんにも、もうどうしようもないほどの力でね」
 しかし男は、彼女の貴重な予言めいた言葉に耳を傾けてはいなかった。深すぎる眠りに就いたせいですっかり冷たくなった彼の体を担ぎ、キタハルを置いて教室から出て行ってしまった。男は五分後、彼を担ぎながら、武装した仲間と無事合流することが出来る、しかしその直後には、緑色の化け物が目覚めて、鋭い爪を持った長い腕に胸を貫かれて死んでしまうのだが、なぜか彼女は、そういう未来すらも何となく予感していたのだ。
キタハルは一人ため息を吐いた。そして、ゆっくり廊下へ出て行った。銃声が絶え間なく鳴り響いていたが、しばらく真っ暗な廊下に突っ立って視界を慣らした。銃声はあちこちに反響し上下左右のどこからも聞こえてくるようで、どっちへ逃げればよいのかもいまいち判断がつかなかった。闇に目が慣れ、ぼんやりと床の木目が見えるようになり、とりあえず右へ向かって歩き出した。火薬の匂いは今や廊下中に充満していた。銃声は時折床をも振動させ、歩く彼女の脚にまで響いてきた。パンパン! と案外近くの背後で銃声がした。彼女は思わずびくりとして振り返ったが、吸い込まれるような真っ暗な廊下が続いているだけだった。二度目のため息をついて向き直り、彼女は再び歩き出した。自分には本当に逃げる気があるのか、もし本当に逃げようとしているのなら一体何から逃げようとしているのか、彼女自身にもよくわかってはいなかった。突然、前方からはっきりと銃声が聞こえてきた。続いて甲高い化け物の叫び声と、男の恐怖に叫ぶ声が暗闇の中から聞こえてきた。キタハルは確信をもって足を速め、叫び声のする方へ向かった。火薬の臭いと、化け物の体液が揮発したものを思わせる青い果物の腐った臭いが混じり、何とも言えない臭いとなって彼女の鼻を突いた。その臭いもまた暗闇の中で彼女を導いた。化け物の、聞いた者の心臓を突き破るような甲高い叫びと男たちの悲痛な叫び、激しい銃声も聞こえ続けていたが、それもまた彼女を怖気づかせるどころか逆に導いていた。やがて前方の暗闇にいくつかの銃口がぴかぴかと黄色い火花を放っているのと、鮮やかな緑色の、おぞましい巨体の暴れているのが浮かび上がってきた。彼女は彼の名を叫んだ。それは確かな波動となって、暴れ回る緑色の化け物の体内にいる彼にまで達していた。
 自分の眠った体を背負う男の胸を、弟の腕が貫いたときから彼は目覚めていた。目覚めたときには既に弟の体内にいたということだが、その時から彼はキタハルの安否を気にしていた。彼女が自分の名前を叫ぶのを聞いたとき、彼の心臓は跳ね上がった。「キタハルがいるぞ、あそこに!」彼は弟の体内で叫んだ。
「はやく、彼女を連れて逃げよう!」
「ちょっと待ってよ!」銃口を向けてきた男の腹を裂きながら、弟が叫び返した。
「まず、こいつらを皆殺しにしないと後で厄介だよ」
「なら早く殺しちまおう!」
 彼は急かすように言ったが、弟は血だらけの腕を振り回しながら、「忘れてないよね、兄さん」と釘をさすように言った。
「そもそも、彼女は僕らを売ったんだよ」
「構うもんか!」と彼は叫んだ。「彼女には、俺が必要なんだ!」
 その時だった。突然、暗かったはずの空間に黄色い閃光が迸った。光の中、爆音とともに廊下の壁が粉々に砕け全員に向かって吹っ飛んできた。土埃がもうもうと舞い、廊下の壁に開けられた穴の中心にはキタハルの伯父が、後ろに五十人の戦士を引き連れて立っていた。「あの化け物を捕らえろ!」キタハルの伯父が全体に向かって怒鳴った。
「生死は問わん、体の一部が残ればいい! あの悪魔を八つ裂きにして捕まえろ!」
 組織の本丸が加わり、校舎の狭い一廊下は混沌とした戦場と化してしまった。黒ずくめの戦士たちの集団は全体の形を変えながら、あちこちへと暴れ回る緑色の化け物を常に囲ってそれぞれが軽機関銃を撃ちまくっていた。銃声が凄まじく、七十以上の銃口が一斉に火花を放ち、まるで命を懸けた祭りのような騒ぎになっていた。あまりに滅茶苦茶に撃ちまくっていたために、味方に背後から撃たれる者も多かったほどだった。化け物になぎ倒されたり味方の銃弾に倒れたりしても、爆破によって開放された廊下の穴からは新しい戦士がぞくぞくと雪崩れ込んできた。いくら銃弾を撃ちこんでも、緑色の化け物には効かなかった。緑がかった透明の粘液をぶちまけ移動しながら、化け物は長い腕と脚を振り回し、次々と送り込まれてくる戦士たちを、自分を囲う集団の内側からピーラーで削っていくように絶えずなぎ倒していった。終わりは見えなかったが、キタハルの伯父は諦めなかった。「永遠に続けるぞ!」安全な場所で全体を指揮しながら、鬼のような形相で叫び続けた。
「あれの体力が尽きるまで、永遠にだ!」
 緑色の化け物は全身に銃弾を食らい、体液を垂れ流し続けもう二十分ほど暴れ続けていたが、体力にはまだまだ余裕があった。しかし、戦闘の混乱のせいでキタハルを見失ってしまった。化け物の体内にいた彼はすっかり取り乱していた。一瞬だけ捉えた唯一の希望を見失ってしまい、「彼女はどこだ!」と叫んだ。
「他の奴らはどうでもいい。早くキタハルのもとへ行けよ!」
「その前にこいつらを片付けないと!」弟は苛立ちながら叫び返した。
「わかってるだろ、兄さん。冷静になれよ!」
 弟は怒りをぶつけるように思いっきり腕を振るった。今や得意な芸当になっていた、三人の戦士の上半身を同時に吹っ飛ばし、残った三つの下半身の切り口から噴水のように血飛沫を上げさせた。彼は「あっ」と声を上げた。血の噴水の向こう側の、ずっと遠くの方にキタハルの背中が見えたのだ。一人の若い男の戦士に手を引かれ、戦場の混乱から連れ出されようとしていた。彼は一瞬、彼女の発見に再び生きる希望を見出したが、彼女の手を引く戦士が視界に入った途端、自分の胸の中に、氷水のような冷たい何かが一気に広がっていくのを感じた。自分でも不思議なほどだったが、嫉妬は一切なかった。自分の胸内のあまりの冷たさに、彼はただただ呆然としてしまった。弟は周りの戦士を殺し続け、血を浴び続けていた。「兄さん、彼女なんてもうどうでもいいだろ!」次の瞬間、決定的な場面が目に入った。背を向けて戦場を走り去ろうとしていたキタハルが突然立ち止まった。緑色の化け物の方を振り返り、確かに、化け物そのものではなく、化け物の体内にいる彼のことを見つめたのだ。目の前の惨劇をただどうしようもなく自分の宿命として受け入れる、諦めきった表情を浮かべていた。彼は、彼女のそんな表情など今までに見たことがなかった。暴れ回る弟の体内で彼はさらに呆然となった。キタハルは、自分の手を引いていた若い戦士に向き直ると、体を引き寄せた。そして、銃弾が無数に飛び交う戦場の中、彼女はつま先立ちをし、自分よりも背の高いその若い戦士の唇に、心中を思わせる接吻をした。その景色を見た彼は、今まで自分の積み上げてきたものが跡形もなく崩れ去ってゆくのを感じた。心の中を埋め尽くしていたあらゆるものに一斉にひびが入り、砂のようになって消えた。そこに突然生じた空洞のあまりの大きさに、自分が何を思うべきなのかもわからなかった。自分以外にキタハルと親しい男など存在するはずがないと彼は思いこんでいた。実際、キタハルが心中のような口づけをした相手は今までに見たこともない、彼女にとっても赤の他人のはずだった。しかし、暗闇の中の銃声と火花、男たちの恐怖と悲しみの叫び声、噴水のような血飛沫、それらが一カ所に集まって爆発している戦場の中で、そのキスシーンは、拭いようのない嘘臭さすら感じるほどにドラマチックなものだった。これ以上に決定的なものは無い――こんな混沌とした戦場の中であっても誰もがそう思わざるを得ないほどのものを見せつけられた彼は、腑抜けたようになって呟いた。「俺たちは今、一体何をしているんだっけ?」自分の言葉が、虚しい心の中で反響するのを感じながら彼は言った。
「俺たちは、何のために戦っているんだっけ?」
 弟が声を上げて笑いながら、「逆だよ、兄さん」と言った。弟の笑いは化け物の甲高い叫びとなって、校舎中に響き渡った。
「戦うために生きてるんだよ、僕らは!」
 その時、廊下に新たな閃光が走った。爆発音とともに、廊下の壁に二つ目の穴が、一つ目の穴の対面に開けられたのだ。古い穴と同じ様に銃を持った屈強な男たちがそこから大量に雪崩れ込んできたが、明らかに様子が違った。テロリストたちが突入するときのような、巨人がものを吐き出すような無秩序さはなかった。凄まじい勢いはあったが、新たな男たちの方は集団として隊列を保ちながら、全員が全く同じ姿勢のままするすると流れるように戦場に突入していった。廊下をぴっちり埋め尽くすように美しい隊列を組み、全員の銃口は寸分の狂いもなく混沌とした戦場に向けられていた。そしてそれが一斉に火を噴いた。鈍い光を放つ弾丸が、次々とテロリストたちの体に食い込んでいった。弾を食らったテロリストたちは、さっきまではともかく一心不乱に引き金を引きながら必死の形相をしていた顔を一瞬でぽかんとさせ、呆けたように目と口を丸く開けたまま、ばたばたと倒れていった。「父さんの部隊だね!」と弟が興奮したように叫んだ。
「本丸と本丸の衝突だ。この戦争のフィナーレだよ、兄さん!」
 弟の体の中で彼は未だ放心していたが、化け物の弟は聞く者を恐怖に陥れるような叫び声を上げながら、テロリストたちをなぎ倒していった。キタハルと若い男の戦士は戦況の混乱に乗じ完全にどこかへ消えてしまった、たとえ彼女のように美しい少女であっても、小娘一人がそこに紛れ込んでいようが誰も気にするどころでは無かったに違いない。テロリストの黒ずくめの集団は、相変わらず緑色の化け物を中心に囲いしつこく集中砲火を浴びせていたが、今や外側からは、自衛隊の特殊部隊に容赦なくその身を削り落とされていた。内側からは緑色の化け物が、外側からは自衛隊の特殊部隊が、それらに挟み撃ちにされる形で、テロリストたちは次々と床に層をなして倒れていった。血の海が出来つつあった。始めのうちは雪崩のような勢いで続々と投入されていたテロリストたちも、次第に数が乏しくなっていった。対して自衛隊の部隊の方は、どんどんと勢いを増していくようだった。テロリストの集団を前にきっちりと整列し機関銃を撃ち続ける、最前列の隊員全員がほとんど同じタイミングで弾切れになると、速やかにさっと脇に引き、二番目の列の隊員が進み出てきて最前列に代わり銃を撃ち続ける、この時のために何回も訓練を重ねたようなローテーションをひたすら繰り返して、絶え間なく激しい銃声が響いた。テロリストの集団は内側と外側から削られ続けた。ついに、突入するための一方通行と心に決めていたはずの壁の穴に向かって、戦場から逃げ出そうとするものが現れた。突然走り出す戦士は目立つために、逆に容赦なく敵の的になった。それが分かって、逃げ出す者の数すらも減っていった。もはや全滅は避けられなくなった。血の海が踝まで浸かるほどの深さになったとき、キタハルの伯父が機関銃を構え、やっと戦闘の中心に躍り出た。「そこに居るんだろ、室長!」と敵の部隊に向かって叫んだ。
「前に会ったのは十年前だが、俺はまるで昨日のことのように覚えているよ!」
 その叫びを受けて、きっちり廊下を埋め尽くしていた自衛隊の隊列が、それぞれ銃を撃ち続けながら、まるでモーゼの十戒のようにぱっくりと二つに割れた。割れた海の間を、一人の男が進み出てきた。七十人目のテロリストを腕に串刺しにしながら、弟が叫んだ。「父さんだよ、兄さん!」弟の視界を通し、彼は戦場の中の父親を見た。しかし、父親は彼に目もくれず、じっとキタハルの伯父のことを見つめていた。
「俺も今や室長ではなく、司令と呼ばれているんだよ」
 彼の父親はそれしか言わなかった。傍にいた隊員から銀色の拳銃を受け取ると、キタハルの伯父に銃口を向けた。「これでようやく、過去の亡霊ともおさらばだ」銃声にしては澄み切った、水面を平手で打ったような音が空間を貫いた。気付いたときにはもう、キタハルの伯父、テロ組織の最高司令サイトウは、寂しげな笑顔を浮かべながら、血の海にゆっくりと沈みかけていた。
 長を失ったテロリストの集団はますます統制を失くし、次々と血の海に沈んでいった。最後まで残った戦士たちは、歴代の戦争の中でも類を見ないほどに哀れな最期を迎えた。緑色の化け物の、悪魔のような叫び声を聞きながら、自衛隊の部隊が一斉に放った何十もの銃弾を全身に浴びて体中を穴だらけにし、まるで溶け出した赤い蜂の巣のような様になって血の海に崩れていった。全ての戦闘が終わったとき、緑色の化け物は自らの粘液と敵の血にまみれながら、血の海が波立つような歓喜の鳴き声を上げた。
「何を喜んでいるんだ?」
 驚くほどに冷たい声が聞こえた。彼の父親だった。拳銃の銃口を、今度は緑色の化け物の方に真っ直ぐに向けていた。
「お前は、俺の部下を五人殺したんだ」
 銀色の閃光が迸った。弟が、頭に針を突き立てられたような鋭い痛みを感じたことを、兄の彼もまた感じた。自らの叔父が開発した呪いの銃弾の力を、このとき、彼と彼の弟は身を以って体感することとなった。次の瞬間、両手足が凄まじい勢いで焼け爛れていくのを感じ、弟は悲痛な呻き声をあげた。両手足の皮膚はあっという間に溶けてしまったが、まだ火は消えなかった。これから千年以上もの時をかけて火を通され、骨までどろどろに溶かされていくように思われた。あまりの苦痛に、呼吸が出来なくなっていることにも気が付けなかった。いつの間にか肺が爆発しそうになっていた。もう一時間は息を止めているようだったが、それでも死ねなかった。その後もあらゆる苦痛が一斉にやって来て、まずはどの苦痛から感じるべきなのか、思わず困惑してしまうほどだった。一つ確かなのは、まるで千年もの間続いているようなこの拷問が、現実ではほんの一瞬の出来事であるということだった。「僕はもうダメかもしれない」と弟が息も絶え絶えになって言った。
「これ以上は耐えられないよ」
「俺を一人にしないでくれ!」と彼は泣き叫んだ。
「彼女を失って、お前まで失って――俺はこの先、どう生きればいいんだ?」
「大丈夫だよ、兄さん」と弟は今や消え入るような声で、慰めるように言った。
「僕はまだ死にはしないさ――一旦眠りに就くだけだよ」
 そう言うと弟は、兄の意識の中からすぅと抜け落ちていった。兄の彼は弟の体の中で、確かにそれを感じていた。それと同時に、兄の意識もまた闇の中へと消えていった。

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