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写真と私(その1)

長い間、技術者として映像の仕事に携わってきた。同時進行で自分の表現手段としてSuper8 で8ミリ映画の短編を作ったり旅の記録をしていたのだが、ある時アイスランドを車で走行中に横転事故を起こしてしまい、窓から外へ飛んでいった小さなカメラは胴からボッキリと折れ、私の8ミリ時代は幕を閉じた。それからしばらくは撮るという行為からは離れていたように思うが、iPhone時代がやってきて、何も考えずに写真を撮り始めた。

それはそれで楽しかったのだが、だんだん欲が出るのは世の常で。

その後はあれよあれよという間に、ミラーレスだ、オールドレンズだと、深い沼にズブズブとはまっていくわけだが、この一連の間にわかってきたことがあり、まとめてみようと思い立った。言葉にしておくというのは、いいことらしい。

写真について。

一回で全てを言葉にできるとは思えないので、ときおり書きとめるかもしれないが、ゴールなど見えなくとも歩き出さねばならぬときもあるではないか。

写真の定義といえば大袈裟だが、まず動画ではなく静止画であるということが非常に重要な点だと認識している。

我々は常に動いている世界を見ている。たとえ動かぬビルや山を見ていたとしても、自分が動いたり、車が通り過ぎたりして、何かが目の前を動く。何かが動いたな、と脳は情報を入れ、判断する。動画の世界でいえば、今や60pという一秒間に60枚の静止画を再生して動画を作るのが当たり前になっている。

なに?という間に60枚だ。

こんな数の静止画をいちいち脳で処理していたら大変なので、人は飛ばして見たり、ぼんやりとみたり、つまり処理できる範囲で、しかも見たいものだけ見ているのだ。そうしなければ一瞬で疲れ果てて息絶え絶えだ。

私は何も見逃さない!などという輩を信用してはいけないのである。

以前、3D技術の巨匠と話していたとき、その技術開発の難しさについて彼が語ってくれたことがある。
曰く、

「カメラのレンズは全部写そうとするから破綻するんだよね。人間の目は、目の前で起きていることをそのまま見てるんじゃなくて、見たいものだけ見てるんっすよ。カメラは見せたくないものも撮っちゃう」

最先端の3D 技術者から、よもや人間についての洞察とでもいうべき意見を聞くとは思ってもみなかったが、まさにこの点が写真の持つ力ではないかと思うのだ。
連続する世界から、静止画を切り出すと、見たくないもの、見る必要がないと判断したもの、もっといえば見えていなかったもの、見逃したものが、目の前に差し出されるのだ。よく見ろと。
点と線の絶妙なバランスや、偶然の人とモノとの関係、不思議な対比、光と影。そんなものは普段の生活に必要なものではなく、よってたいがいは無視するのだ。見て見ぬふりをするどころか、だいたいにおいて見ていない!
それを写真は見せてくれる。
よっこいせと生まれた時から止まったことのない時の流れを止めて、本当はこんなことが起きているんだぞ、と提示される。
静かに止めて不要なフレームを間引く、60枚から59枚捨てて1枚だけしっかり見つめる、引き算の世界だ。
そうやって、写真を通して世界を見つめ直すことができる。未知の姿を見る機会が与えられるのだ。

ともすると、見逃していた静かな柱の佇まいや、妖精がいたかもしれないと思わせる光の滲みや、自由の象徴にたどり着くまでに溺れてしまいそうな不穏な海が、現れる。

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写真を現像するとはよく言ったものだ。

カメラ技術は進化を続け、4Kや8Kといった規格にも慣れYouTubeにも動画は溢れる一方だが、その流れとは真逆の道に足を踏み入れ、情報を間引いてみる、時間を止めた場所に立って世界を見つめ直すことが、こんなに容易く誰にでもできるとは驚嘆に値するとは思わないか?

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ついでに書いてしまうと、私の場合、自分の腕で写真を撮っているなどとは思っていない。メガネ歴40年のど近眼なので、フレーミングなどは適当だし、ピントの山など見たこともない、といえば言い過ぎかもしれないが、デジタルの場合はピーキングを入れておけばピント合わせはできる。オールドカメラでマニュアルフォーカスの場合は大雑把にしかできない。あるいは素通しのファインダーのカメラなぞは目測だ。ここに揚げた写真は1962年に発売されたminolta repo というハーフフレームカメラで撮ったもので、素通しのファインダーを覗いて目測で撮っている。でもって、ここぞと思う場所でここぞと思うタイミングを待つという辛抱強さはあいにく持ち合わせていない。だからずいぶんと他力本願な撮り方をするのだ。つまり私はカメラを持って歩いていればいい。すると神様がなんとなく誘導してくれるのだろう。そしてなんとなく撮りたい場所に連れて行き、なんとなくシャッターを切るよう指に力を入れてくれる。

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写真を撮る行為は大袈裟にいえば神様との共同作業なのだ。こう考えれば気楽でもあるし、気持ちもアップするというものだ。撮ってるのはほとんど神様なのだからな。そうして創り上げた世界を見せてくれる。

ちゃんと見ろよ、と。

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