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#07 日本の未来はどうなるか。 国家の衰亡について調べてみた

なぜ、イギリスは、サッチャー改革まで100年の停滞を余儀なくされたのか

 イギリスは、19世紀末から1980年代のサッチャー改革まで、100年近く、長い衰退の時代を経験した。中西氏は、別の著作(「国まさに滅びんとす―英国史に見る日本の未来」)の中で、イギリスが、なぜ、長い停滞から脱せなかったのか、そして、いかにして停滞から脱出し、復活したかを説明している。

19世紀末から20世紀初頭の改革論争

氏によれば、イギリスでは19世紀末から20世紀初頭にかけて、改革論争があったという。ボーア戦争の敗北を機に、当時の政財界には、大英帝国はこのままでは衰退していくのではないか、という危機感が生まれた。そこで、二つの方向性が議論になった。

一つは製造業を中心とする産業界からで、自国産業の衰えを回復するには自由貿易から米独のような保護貿易に転換し、内需拡大を図るべきという主張。植民地を含め、大英帝国がもう一度手綱を引き締め、植民地を一元化して組織化する「帝国ブロック化構想」である。

これに対し、若い世代、一部の有力政治家や評論家、インテリ層は、保護貿易に転換するのではなく、自由貿易、開放経済の徹底を主張した。海洋国家イギリスにとって自由貿易こそ繁栄の基盤であり、絶対に維持せねばならない。さらに競争がグローバル化する20世紀には、非効率な製造業でなく、金融・情報通信などのサービス業が産業の中心になるから、そのためにも自由開放経済が必要である、という主張である。

こうして、「保護貿易、ブロック経済化、製造業復活」と「自由貿易、開放経済、金融・通信などサービス業振興」の2つの改革論が激しくぶつかり合った。しかし、議論は政財界のエリートの間にとどまり、庶民大衆を巻き込んだ運動に広がらなかった。

エリートたちがコップの中の争いを繰り広げる間隙を縫って、大衆を巻き込んだ議論を起こしたのは、一部の野心的な若手政治家たちである。その結果、圧倒的多数の一般有権者たちは、どちらの改革論にも組せず、第三の道、すなわち「ポピュリスト的な市民中心の内向きの政治」を選択した。

この結果、改革論は中途半端に終わり、ブロック化にせよ開放経済にせよ、改革派のリーダーたちが10年以上かけて議論してきた改革プログラムは成就せず、イギリスは衰退の根本的な要因を抱えたまま、第一次世界大戦になだれ込んでいった。

さらに、大戦後も長く続いた不況と1929年以降の大恐慌、そしてヒトラーの登場から第二次世界大戦へと、その後のイギリスは息つく暇もなく世界の大変動の波にもまれ、英国民は結果的に「筆舌に尽くし難い辛酸」をなめることになった。

中西氏は、このイギリスの改革の挫折から学ぶこととして「一たび、改革の歴史的機会を失った国は、その後の世界の大変動に最も脆弱なままさらされることになり、その結果、他のどの国よりも早いペースで衰えていくことになる。これが、私が今日的な日本の風景から見て、決して無縁なものではないと思う教訓である」としている。

さらに氏は言う。「とくに若い世代の政治家が自己の権力的な動機をもっぱらにして、そこから時代の雰囲気に流される形で大衆に迎合し、あてのない政党の離合集散の流れの中から結局は現状維持でしかない、いわゆる『市民派的改革』の方向へ傾斜していったことが、20世紀のイギリスにとって最大の悲劇だった」。

なぜ改革は失敗したか

イギリスで改革が失敗した理由は何か。中西氏は、当時の政治家や財界人などエリート層の精神の頽廃を挙げる。

「若いエリート達が、それまでの時代の古いエリートには考えられないほどの明らさまな『自己利益指向』で動いたことが、改革の挫折にとって特に重要な要因であった」。
古いエリート層が、製造業復活か、金融などの新分野に打って出るかという大論争を展開したまではよかったが、それが観念的・抽象的かつ二律背反的で、本来イギリスが得意としてきた骨太のプラグマティズムが失われて、国民世論の関心を得られなかった。その間隙を突いて、若いエリート層が、受けのよい「市民派的改革」を掲げ、その結果、真の改革は起こらず、現実の政策は惰性に流れた。

氏は次のように結論付ける。
「エリートが、外来の観念論や新しい価値観・理念に抵抗力を失い目立って脆弱になるのは、このときのイギリスに限らず、衰退の一つのパターンだと言える。知的には前の時代よりうんとレベルが高くなったエリートが、逆に理念や抽象的な議論に奇妙に弱くなったり、新しい時代の趨勢と見えるものを無批判に受け入れてしまったとき、国として普通は犯さない大きな失敗を招き、その社会も多きく活力を失ってしまうことが多い。それまで自分たちがやってきた、自分たち自身のやり方を、いかに新しい環境の中で、積極的に適応させていくか、これが精神の強さ、社会のバイタリティーの存否を占う指標だといえる。イギリス衰退の根本要因は、大衆民主主義における合意形成の失敗とともに、エリート層の精神に起こった深いところでの頽廃だったと言わなければならない。」

(次号に続く)


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