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#05 日本の未来はどうなるか。 国家の衰亡について調べてみた

2050年の日本はどうなっているか

では、2050年には日本はどうなっているか。氏は、戦後教育がエリート主義と職業倫理の退廃をもたらし、「人的資質」という日本の土台が「活力なき土台」になっているのではと危惧している。

戦前教育の基礎には儒教国の伝統があった。儒教は江戸時代に国学となり、長く日本人の精神的基盤だった。儒教国では、「人は教育の有る者と無い者に分けられる」。かつては教育の有無の基準は大学であり、大学を出た人は君子、出なかった人は小人だった。
だから、親は必至になって子供を大学に行かせようとした。学生の方も、大学を卒業すれば知識階級であり、選ばれたものとして「ノブレス・オブリージ」を意識し、社会に出てもリーダーとしての自覚と責任を持って行動することを求められた。

しかし、戦後教育は、大学の数を増やし進学を容易にした。大学進学率は、戦後は10%未満だったが、1990年代末には4割となり、現在は6割に達する。こうなれば大卒は特別なことではない。大学は大衆化し、エリート養成機関としての性格は消失する。

さらに、氏は、1990年末の若者が置かれた状況について、次のように指摘する。ひとつは、価値判断の排除による論理的思考力と意思決定力の弱体化である。
「戦後教育は、誰をも贔屓したり特に貶めたりしないように、完全に無差別の原理に則って行われた」。黒木氏も指摘していた「競争させない教育」である。そこには優劣の判断がなく、「全ての価値判断は排除されたが、そういう時代が続いた結果、日本人は価値判断を行う能力を失ったしまった。」 詰め込み教育が行われた結果、知識は増えたが、判断をしないから、「論理的思考は不得手」で「意思決定力もすっかり弱くなった」。

もう一つは、若者の勤労道徳についてである。
本来、労働者が尊重し従うべき忠誠心は、会社や雇用主に対してではなく、もっと抽象的なものである。しかし、「労働者に、なにか抽象的・超越的なものに対する義務感や責任感を持たせるためには、現代日本の教育環境は標的外れで不毛である。あまりにも物質主義的な教育がなされているからであり、宗教的な環境―より高次な次元の倫理へのおそれ―は一切みられないからだ。物質主義者・功利主義者になるための教育を受けた彼らは、倫理上の価値や理想、また社会的な義務について語ることに対しては、たとえ抽象的な論理的訓練としてでさえ、何の興味も持たないのである。例えば日本の若者たちは『愛』を知らない。」

そして、氏はこういう。「日本は今の彼らの延長線上に2050年を迎えねばならない。」

いささか「戦前教育」礼賛であり、戦前教育を受けたエリートがあの戦争を起こしたという点が抜け落ちている気もするが、他方、四半世紀前に書かれた本がいまだに読み継がれているというのは、人々が何らかの真理をその中に見ているからとも考えられる。

森嶋氏が指摘する「政治の堕落」

森嶋氏は日本の政治の行く末も危惧する。以下、1990年末の氏の考察である。

「政界はいまだに日本土着の村落共同体を運営する仕方にこだわっている。」政党内に派閥があり、派閥の長は所属する部下(議員)を統括するために財政的に支援する。そのためには、派閥の長は自分自身が財産を持っているか金を集めることができなければならない。陣笠(新人議員)は資金を集めることが政治活動だと思っており、派閥の長は大派閥をつくる工作をすることが大物政治家のすることだと思っている。」

しかし、イギリスを見れば分かるように、「政党とは、同じ政治的信念を持っているものが、一つの団体を形成して、党費を払って自分たちの政治的信念を実現させよとするところに生まれる。政党にとって一番大事なことはどんな信念の下に集まるかということ」であり、そのために「政治資金のかなりの部分が研究費に投じられている。だから、彼らは宗教家、ジャーナリスト、文科系の大学教師と非常によく似た活動をし、よく似たタイプの経済生活をする」と考えられる。

「政治家の仕事は、新しい政治的なアイデアを創り出すことにある。偉大なる政治家はアトリー(福祉国家)、ヒース(EEC加盟)、サッチャー(私有化政策)がそうであるように独自の政策プランを持っていた。

イギリスでは、総選挙とは各党の政治プログラムの間の戦いである。日本のように候補者がこの選挙区にどんな利権を中央から持ち帰るかの『公約』の争いでは決してない。西欧社会、とくにイギリスでは、公約とは総選挙の時に党が公約した政治プログラムのことであり、党には唯一つの公約があるだけである。日本のように各候補者ごとに公約があるのでは絶対ない。」

「公約は、政治、経済、文教、福祉等国民生活のあらゆる面にわたるから、公約をマスターするだけでもかなり勉強する必要がある。イギリスでは政治家は、大学にしばしばきて講演会を開くし、大学の研究会にも参加する。学生は意地の悪い質問をするから、自党の公約の裏の裏まで理解していなければ、とっちめられてしまう。」

日本の政治家はどうか。戦後、吉田茂、石橋湛山、池田勇人。佐藤栄作、三木武夫、福田赳夫、大平正芳など優れた政治家が活躍したが、石橋・三木の二人を除けば、他は官僚出身だった。その後、「1988年から1997年にかけて9人の首相が誕生したが、そのうち官僚出身者は宮沢喜一ただ一人、他は皆政党生え抜きの首相」だった。官僚からの転身ではなく、党人派が増えた。

では、党人派の台頭で政治が変わったかといえば、これら「党人派の政治家は戦後教育を受けた若い人達であったにもかかわらず、選挙に勝ち抜かねばならぬという地位の不安定さの故に、選挙区の古老に牛耳られており、日本の政界の倫理は党人派の時代がくるとともに近代以前に逆戻りしてしまった。」

森嶋氏がこの本を書いてから四半世紀経った今、政治は変わっただろか。派閥解消は進んだように見えるが、水面下では根強く残っている。「数は力」であり、議員をまとめなければ力を持てないから、やむを得ない面もあろう。しかし、派閥が「特定の政策を実現するため」というより「人事で有力ポストを得るため」、「党内で影響力を保持するため」といった権力闘争の道具として残っているのであれば、結局昔と同じである。

かつては政党間で「マニフェスト」を競う時期もあった。しかし、今は、「公約」は、将来の日本の在り方を見据えた政策プログラムではなく、選挙民へのアピールのツールに戻っていないか。私たちは、森嶋氏の指摘を「古い」と一蹴することができるのか。

(次号に続く)


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