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#08 日本の未来はどうなるか。 国家の衰亡について調べてみた

イギリスを復活させたサッチャー改革

19世紀末から続いていたイギリスの衰退に終止符を打ち、改革によってイギリスを復活させたのはサッチャーである。

「サッチャー改革」の意義について、中西氏は次のように言う。
「1970年代のイギリスは、世界に先がけて『20世紀の終焉』を迎えていた。20世紀が代表した計画化や福祉理念、つまり『やさしさ』を本質とする『大きな政府』の理想は今や明らかに行きすぎていた。そのため、人々の内面の自由だけでなく、その寛容と博愛と干渉は人間の本質的な『弱さ』と『醜さ』をかえって助長し、共同体としての国家の精神的・経済的衰退の源となり始めていた。世界は、誰か、『裸の王様だ!』と叫ぶ少年を必要としていた。『サッチャー改革』の世界史的意義はそこにあった。」

サッチャー改革は、ハイエクやフリードマンが唱えた新自由主義を理論的基盤とし、「自由な市場」、「競争原理」、「健全通貨」、「自由企業」、「自助努力」を掲げ、経済に関する自由を貫こうとするものである。その信念は、イギリスがまだ活力を保っていた19世紀半ばの政治家リチャード・コブデンの次のことばに集約されるという。

「私は社会の大半を台なしにしてしまうような筋の通らない博愛や、まがいものの人間性を持ち合わせてはいない。私の博愛は、自立、自尊心、保護され甘やかされることへの軽蔑、貯蓄欲、上昇志向を労働者階級の心に教え込むよう仕向ける男らしい種類の博愛なのだ」。

イギリスの衰退の要因は、政治・経済の面では、国内産業の低迷による資金流出、政府の経済への過度の介入、重税やインフレに結び付きやすい「福祉国家」化などが挙げられる。

しかし、より根深い社会・文化的要因があった。それは、イギリス社会の階級構造の堅固さ、技術教育や製品開発への関心の低さといった社会的・文化的問題であり、さらに、むき出しの金権主義を厭い、都市生活の喧騒を軽蔑し田園生活を理想とする「反成長」の文化である。
イギリス人の国民的な田園志向は、健全ではあるが、どこか物質文明や経済成長そのものに背を向ける契機を有しており、それが何世紀もの間、精神文明の優位を訴え続けた文化的伝統と結びついていたのである。

改革実現のためサッチャーは何をしたか

 サッチャーは、どうやってこの旧弊を打破したのか。

「首相就任前から党内の大勢や国民の全般的ムードに抗して、政治生命の賭け、ともいえるほどきわめて強いコミットメントを、ほとんど全ての政策分野、たとえば公共事業、労働問題、民営化、福祉削減、教育改革とモラルの再生、法と秩序、国防、対EC政策などではっきりと打ち出し、さらに79年の首相就任後もその後退・変更がほとんどなかった。そのために、彼女特有の人格と驚くほど熱心な仕事ぶりが不可欠なものとなった。」 

サッチャーは、特に優れた知性の持ち主というほどではなかったが(大学の成績は凡庸)、普通はイギリス人がそう見られることを避けようとする「ガリ勉」タイプを隠そうともせず、週7日、一日19~20時間仕事をした。まさにモーレツな仕事ぶりである。
彼女は、イギリス人が重んじる趣味とユーモアの感覚に欠け、面白みがないうえに、自己の正しさへの絶対的確信を持ち、周囲の人々に配慮したり、他人の意見にもほとんど配慮の姿勢を見せない頑固一徹さを備えていた。そして、改革に向けて猪突猛進した。

このサッチャーのスタイルを中西氏は次のように述べる。
「それは、人を驚かす強い言葉と、象徴的な行動で、古い『ヌルマ湯』にひたっている人々にショックを与え、それまでの惰性と妥協の気風の中にあった人々の意識に変革を迫り、それによって新たに国民的エネルギーを結集してゆく政治指導のあり方であった」。

政策論だけでなく「精神の姿勢の改革」を伴わなければ改革は成功しない

中西氏は、改革の成功には、「精神の姿勢の改革」が重要だという。
「日本人もイギリス人も比較的勤勉かつ謹厳な国民である。そのような基層文化をもつ国が妙に『楽しい社会』になったときには、そこに深刻な時代の挑戦から目をそむけようとする『問題のすりかえ』があることが多い。
衰退し始めた社会が、差し迫っている大きな歴史的不適応を直視せず、むしろ問題を目先のものにすりかえるのは、歴史の普遍的な法則であり、どこの国でもみられることである。しかし、20世紀初頭のイギリスと現在の日本は、その社会意識、モラール、価値観、倫理意識など、人間と文化の社会的な一体性が崩れている点で酷似している。」

そして、衰退から脱するには、日本の現状を取り巻く諸問題を解決するための方法論、政策論といった「各論」だけでなく、日本のリーダーや国民の「精神の姿勢」という「総論」も必要と中西氏はいう。

「今日の日本の精神状況の中にある真の問題は、過度な危機意識をたしなめる程度には成熟しているのだが、それが『弛緩からくる麻痺状態』を動かす活力をもたらすことができないなら、その成熟は単なる『堕落』であり、いずれ将来における『激発的な痙攣』につながるという危機を見てとる真の成熟を欠いている点である。」

「日本の社会には、解決不能な問題は存在しないかのように振舞い、どんな問題でも細かなデータを駆使し、システムや技術の次元で還元したり、『政策選択』のレベルの問題としてとらえようとする、狭隘な『近代主義』の悪しき精神的習性がますます多くの場面でみられる。そうしたやり方で論じられないような、根源的な問題をタナ上げして、すべてがテクニカルなレベルの議論で終始していること自体が、いまの日本の衰退のひとつの表われであるともいえる。」

では、精神の堕落やテクニカルな議論への逃避に陥らないようにするにはどうすればよいか。氏は言う。

「『各論』つまり個々の政策論を超えた『総論』がやはり不可欠なのであり、それは、この大きな改革を前にしてリーダーと国民一人ひとりが抱くべき『精神の姿勢』ではないのか、と思うわけである」。

では、この「精神の姿勢」とは何か。

(次号に続く)

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