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アウトサイダーアートの視点から

私の頭の中にいるあなたと実際のあなたはおそらく同じではないだろう。しかし、現実のあなたがどれだけ本当のあなたであるかということと、私の頭の中にいるあなたがどれだけ本当のあなたでないかということはとても曖昧なものであり、ましてや私自身が私の頭の中を通してしかそれを見ることができないのだからなおさらだ。

テレパシーというものがあるとすれば、それは言葉を交わさずに会話ができるという意味だけではないのかもしれない。例えば私の頭の中のあなたと私の会話と、あなたの頭の中の私とあなたの会話の痕跡がシンクロニシティとして現れた時、その時に感じる感覚は自身にとっては充実したコミュニケーションとなるだろう。それは錯覚であったり妄想であるかもしれないが、実感として会話以上のものがあったとしたらわざわざそれを実際の会話と線引きする必要があるだろうか。もちろん常識的に、一般的な現実との区別はしておく必要はあるだろう。

私にとって絵を描く行為とは、まず無意識があり、それにより出来上がって行く絵、それを見て何かを感じる意識がある。それはある種、無意識とのコミュニケーションかもしれない。そして出来上がった絵を現実に投げることによって、現実とのシンクロニシティが起こる。最初はそれら全てが意識的なものだと考えていた。しかし、ある時から意識的では説明しづらいものが出てくるようになった。するとそれらは関係妄想かまたは陰謀論かという話になって頭が混乱してくる。だが次第にそういうこともあるんだと思えるようになった。いわゆる無意識的コミュニケーションというのか、潜在意識が繋がっているから起こるシンクロニシティというのか。問題は自分にとって意味があるのかということだが、絵を描くことによって私は自身の感情をある程度コントロールすることができたし、何かに導かれるように必要な知識を得たり、必要な知識を得るヒントを得たりした。また、自分には価値が無いという現実以外の視点を与えてくれたり、絵を描く前からも確かに自分を導いてくれる何かがあったことに気づくことができた。

無意識とは何か。それは私を導いてくれるもの。意識は発見し、何かを感じる。少なくとも、感謝し謙虚であろうとすべきだと思う。何故なら自分の実力では何も出来ないし何もわからなかったからだ。かといって、自由であろうともすべきだと思う。何故なら絵を描く時、何でもありだと思えなければそこには意識が介在しているからだ。

私と私の頭の中のあなたとのシンクロニシティの価値が広く見出だされた時、アウトサイダーアートはアートになるのかもしれない。

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