みていねん(未定年)
博報堂の三島さんの「未定年」の記事を読んだ。
65歳の定年が視野に入った、昭和30年代後半世代の僕にピッタリとあてはまる記事だった。
なぜ未定年なのかというと、思春期を迎えて大人になる前の「未成年」になぞらえた造語。さすがコピーライターさん。
昭和の時代、僕の両親の時代は、同じ会社で定年まで勤め上げることを目標にするのが「正しい」生き方として存在した。会社でヘマをしなければ、みんなに祝福されて仕事をやり終えることができた夢の時代。昭和ドリーム。
それが、ここ20〜30年ほどでゆっくりと、しかし大きく変化した。定年はほぼなくなり、できるだけ長く、体が動くうちは働いてください。これが令和の現実。
先が見えない不安は、未成年のそれとそっくりで、良く言えば青春時代の再到来。だけど、あの頃のような熱い情熱と頑丈な体はもうない。かなりやばいと思うのが普通だ。
記事の中で、副業・兼業が認められたことが希望とある。そして、最近流行りのリスキリング(学び直し)。さて、実際に兼業申請を出してひとり起業し、新しい技術について学び直した自分の感想は、
「確かに心の支えにはなる」である。
長い人生で学んだが、アウトプットはそう簡単には出ない。努力が実を結ぶには、桃栗三年柿八年。学び直して5年、起業して3年。今ようやく自分の中でそれらが根付いて、ちいさな蕾をつけている。だけど、根はまだ細く、強い風が吹けば簡単に倒れてしまいそうだ。
だから、実がなるかどうかはほんとうに一か八か。運が良ければ幸せな気分を味わえるかもしれないが、これまでの経験からその確率は低いだろうとわかっている。ならば、このちいさな蕾をつけたことを喜ぼうじゃないか。能天気な昭和マインドはそう叫んでいる。