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火ばさみを手にして、わたしは無敵になった。


よく晴れた日の昼下がり、散歩をしていたわたしの右耳から、突然イヤホンがこぼれ落ちた。

ああああああぁぁああ!!

昨年のクリスマスに夫にもらったばかりの大事なワイヤレスイヤホンが、ころころころとおむすびころりん風に転がっていき、道路の側溝に落ちた。よりによって、深いところに落ちた。

ほらこんなことになるから、わたしには有線イヤホンが合っていたんだよぅ。現代人ぶってワイヤレスイヤホンなんて使うからこんなことになるんだよぅ…と頭を抱えながら、しゃがみ込んで側溝の中を見つめた。行きかう人や自転車を気にもせず、しばらく見つめた。

今この場面を絵にして、『大ピンチずかん』(小学館)の1ページにしてほしい。そのくらい、わたしは困っている。

手を突っ込もうにも入らない、格子状の蓋を外したところで手が届かない。わたしは道具を買いに行くことにした。近くにスーパーがあったので長めの火ばさみ(698円)を入手し、「ワイヤレスイヤホンは現場で落ちているんだ!」と自分に言い聞かせながら小走りで側溝の場所まで戻った。

体一つでどうにかしようと思ったときはあんなに無謀に思えたのに、火ばさみを持ったとたん余裕で取れる気がしてきて、本当にあっさりとつまみ上げることができた。救出したワイヤレスイヤホンをティッシュにくるみ、現場を立ち去った。

家までの帰り道、不思議な感覚になった。火ばさみを持ったわたしは、なんだか子どもの頃にセーラームーンのスティックのおもちゃを振り回したあの日のような無敵モードになったのである。ちょっと強くなったような、自分が光をまとっているかのような、いつもしないようなことをしてみたくなるような、そんな気持ち。

そうだ。ゴミ拾いをしよう。

わたしは、家の周りの歩道に落ちているゴミを拾うことにした。我が街はこんなにも汚れていたのかと引いてしまうほど次々に出てくるタバコの吸い殻、おにぎりのフィルム、紙くず。道徳上よろしくないハレンチな写真なども出てきた。

ゴミを拾い始めて約5分。自転車に乗ったマダムに、「お疲れ様です」とお辞儀をされる。なんてことか。この街に越してきてうん年、道行く知らない人に声をかけられるなんてことは一度もなく、人々のかかわりが薄い冷たい街だとばかり思っていた。それなのに、たった5分で「お疲れ様です」と声をかけられてしまう。いかに自分が地域になじもうとしていなかったかを反省させられる。

スーパーのビニール袋いっぱいにゴミを拾い、わたしは家に帰った。あまりにも気分が晴れやかで、自分の中のどんよりとした悩みや雑念がちょっと軽くなったのがわかった。

これは、トイレ掃除ブームに次ぐ、ゴミ拾いブームがわたしに到来するかもしれない。家の中で悶々と悩み始めたら、火ばさみを握って外に出ればいい。悩みの芽を摘んでいくようにゴミを拾って、全部捨ててしまえばいい。そんなことを考えていたとき、スマホに一通の通知が来ていることに気づいた。仕事関係の、ちょっとうれしい知らせだった。またまた運気が上がりそうな予感がする。



おわり

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