〇今日の読書
『草枕』 ~ 夏目漱石 ~
〇なぜ読むのか?
僕は移住先(安住の地)探しの旅として熊本県にある峠の茶屋を訪れた。知らずにやってきたのだが、そこは夏目漱石の草枕の舞台とされる場所で資料館となっていた。
そこで、冒頭の文章を読むことになる。
今の暮らしを変えようと熊本を訪れた自分にぐさりと刺さる言葉たち。ここから物語が始まる。
その帰路には僕の足は自然と本屋に向いていた。
夏目漱石の『私の個人主義』という講演を記したものがあって、これも愛読書として心に置いている。それから実は夏目漱石の小説を読み耽りたいと思っていた。夏目漱石はぼくらを文学少年にさせてくれる気がするのだ。
〇あらすじ
東京に住む画工の旅の物語。非人情をしに出掛けた旅と画工が語るように、この作品を通してのテーマは非人情。それが漱石の文学論であり、芸術論である。画工が語る中にも、非人情になり切れていない光景も垣間見える。
翻訳本は『The Three-Cornred World』と題された。この物語は上の一文に語られていると言ってもいいのだろう。
13章に舞台は分けられる。各章をそれぞれの舞台として眺めるように読むのが、『草枕』の楽しみ方のようだ。
1章 山路をゆく。画工の心情が描かれる。
こんな風に画工は道中でこれから起こる出来事を能に見立てて旅をして行く。こうやって、日常を過ごしてみると、些細な出来事も演劇の舞台のように観ていられるのだ。草枕を読むと、その境地を画にしたり詩にしたりして、日々を過ごしてみるのも一興だなと思わせてくれる。
2章 茶屋のばあさんの話『長良の乙女』について聞かされる。
という一文から2章は始まる。各章の始まりの一節がいい。これから舞台が始まるのかと予感させてくれる。こんな風に思いながら峠の茶屋に入っていく画工を想像するのも面白い。
二人の男に言い寄られた末に身を投げた長良の乙女の昔話を聞く。ヒロインのお嬢さんのイメージが膨らんでいく。
3章 ヒロインの那美さんとの出会い。夢うつつに影法師を見る。
非人情で状況を観ることで、たとえ自分に起こる出来事でも画になるし詩にもなるのだ。なるほど確かになと思う。
夜半の寝床に歌声が聞こえてくる。障子を開けてみると月の光を忍ぶ影法師の姿を見る。物語の中で那美さんは幾度も画工を驚かせるように現れる。それはまるで能の舞台で女役者なのだ。
4章 那美さんとの会話。至極呑気な春を過ごす。
那美さんのことが気になって仕方がない画工。俳句の掛け合いをしたり、至極呑気な春を過ごす。
余談だけれど、この場面を読んでいると、ばさっと小鳥が部屋の窓にぶつかった。そして、慌てて飛び去っていった。その後ろ姿には必死に生きる様子とその訴えが見て取れたような気がした。
5章 親方の話『狂印の女』と那美さんについて語る。
床屋の親方から那美さんは狂印だと噂話を聞かされる。この田舎の里にあるのどかな景色と親方の乱暴な手際と口調とは調和しようがない。那美さんのことが気になって仕方のない画工は、その舞台を盛り上げるかのように方々で噂話を聞いていく。
6章 家を歩く那美さんを観る。
この一節がいちばん好きなところ。美しい。音の調べがいい。そして、この境界に入ることが芸術家の本髄なのだと思う。
空しき家で詩を詠む画工だったが、家の中にふと那美さんは現れる。こちらには脇目も振らず、また芝居役者のような振る舞いで。
7章 風呂場の春の靄にて。
舞台の合間合間に漱石の芸術論が語られる。明治の時代に西洋近代化の波が寄せられることへの危惧が見て取れる。
風呂場で心地よくなっているところへ、白い輪郭が春の靄の中を歩いてくる。那美さんの見せ場で大一番だ。ホホホホといつもの甲高いような笑い声をあげて去っていく。
8章 戦争に向かう青年に現実を見る。
ここで突然、現実に帰される。非人情の旅をするために東京からいなかの温泉宿までやってきた画工だが、呑気に過ごしたこの里にも現実を見る。漱石は芸術に生きる中にも現実は切れないものだと言っているようである。
9章 那美さんとの会話『非人情について』
画工は小説の読み方を語る。これがどうやら草枕の読み方らしい。筋のない話だから、どこを読んでも面白いのだと。そこにはただ美しさがあればいいというのが、俳句的小説と言われる草枕なのだろう。
身を投げているところをかいて下さいと衝撃の言葉を受ける。本気とも嘘ともわからない。非人情に努める画工も那美さんにはいとも簡単に驚かされる。
10章 『志保田の嬢様』の話。鏡が池での光景。
鏡が池では赤い椿がぽたりぽたりと落ちる景色が描かれる。
『志保田の嬢様』の話を聞く。虚無僧を追って身を投げたというのが代々前の志保田家のお嬢様。志保田家の女は気が狂うのだと言う。
常に非人情な佇まいの那美さんの表情に欠けているものは、憐れの念だと画工は気づく。その表情を見て取れた時に画工の描きたい画は完成するようだ。
鏡が池の崖の上に那美さんを見る。身を投げるのかいなやという緊迫感。ここでも舞台役者に徹する那美さんを見られる。
草枕の物語は、どうなるんだ?どうなるんだ?と思って読んでいても、たいして何も起こらない。ただ舞台を観るように距離を取って、もう一度読み直すとなんだか物語が浮かび上がってくるように感じる所に面白さがある。
11章 和尚の話。
いい表現だなと思った。和尚の書に『竹影階払塵不動(ちくえいかいをはらってちりうごかず)』というのが物語に出てきた。これは竹の影が風に揺れ掃くように動いても石段の塵は動かないものだということで、外界がどう荒れていようとも心身自在な境地を例えている。
それに対し、月に照らされる松の影は風が吹くことすらも苦にしない様が見られる。
12章 那美さんと元旦那のやり取りを覗き見る。
草を枕にこんなことを思っている画工を前に、那美さんと野武士のような見た目の元旦那が現れる。短刀を襟に忍ばせた那美さんを見ていたために、ここでもハラハラとさせられる場面を垣間見る。
拙を守るという表現も好きだなぁ。僕も生まれ変わるなら木瓜になりたいと思った。
13章 那美さんの表情に憐れ見る。画工の画が完成する。
戦争に向かう久一さんと共に駅へ向かう。
末は涙の糸になる、この表現もいいな。切ない声と情感が伝わってくる。力強い那美さんの様が対照的に映る。
クライマックスを前に急に時代の批判を耽りだす。ここは漱石が強く訴えたい所だったのだろう。
久一さんを見送る場面となる。
常に役者として振る舞う那美さんに人情が宿った瞬間、その表情に憐れが映る。それだ!それだ!と言っている画工は人情に欠けるだろうが、この光景に画工の非人情の旅は完結するのである。
画工は東京での暮らしの中で画工になるという勇気を持てず、その心境を得るために温泉宿までやってきた。その道中を非人情に観ることで景色や光景を場面として画にしたり詩にしたりして、画工の美を表現してきた。画工が掲げる美しさが、この憐れと共に那美さんの表情に見て取れた時に、画工の画工をたらしめんとする意気地その心境も完成されたのだろうと思う。画をかくというよりも、この心境に入ることこそが芸術家であるということなのだと思った。
〇終わりに
漱石は『草枕』を美を生命とする俳句的小説と語る。
漱石は『則天去私』という言葉を掲げ額に飾っていたという。
晩年の夏目漱石が理想とした心境。天に則って私心を捨てること。我執を捨てて自然に身をゆだねること。
四角の世界から、我という一角を捨て、智、情、意の三角の世界を観るというのが、草枕の主題であり、漱石の世界観だと僕は捉え受け取っている。
人情という個人の感情を離れたところから事象を見つめる。探偵のようにエゴを気にして人情に囚われる中には芸術を生む心境は存し得ないのだろう。
ただ、芸術が非人情から生まれるのに対して、憐れみを覚え、美しく感じるという人情を以てして、芸術は完成を見るのだとも思うのである。
〇お気に入りの箇所
お気に入りの箇所を引用しておこうと思ったが、切り取りたい場面が在り過ぎた。読み返したいという気持ちを込めて、お気に入りの箇所をここに残しておこうと思う。
1章
山路をゆく非人情の旅。
2章
婆さんの話『長良の乙女』
3章
竹影階払塵不動
長良の乙女の夢
夢うつつの影法師
四角な世界から常識と名のつく、一角いっかくを磨滅まめつして、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう
那美さんとの出会い
4章
俳句の掛け合い
至極しごく呑気のんきな春
あれが本当の歌です
5章
親方の話『狂印の女』
6章
この境界きょうがいを画えにして見たらどうだろう
7章
春宵しゅんしょうの靄
土左衛門どざえもんは風流ふうりゅうである
画家の思い出
部屋一面の虹霓にじの世界
8章
運命は卒然そつぜんとしてこの二人を一堂のうちに会したる
9章
ただ机の上へ、こう開あけて、開いた所をいい加減に読んでるんです
非人情ですよ
私が身を投げて浮いているところを―奇麗な画にかいて下さい
10章
憐れは神の知らぬ情じょうで、しかも神にもっとも近き人間の情である
志保田しほだの嬢様
11章
和尚の話
12章
真の芸術家たるべき態度
那美さんと野武士
13章
末は涙の糸になる
おさき真闇まっくらに盲動もうどうする汽車はあぶない標本の一つである
「それだ! それだ! それが出れば画えになりますよ」
出典:『草枕』青空文庫