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ともに いきる | saki

子どもの頃、ふと、目に留まった植物に惹かれ名前も知らぬその草を手で掘り起こし、家に持ち帰り容器に土を入れて水をあげた。
その草に「ピー子ちゃん」と名付け、毎日眺めた。

ある日、根腐れしてピー子ちゃんは居なくなった。悲しかったけれど、その感情の奥にある心に触れた植物と過ごす日々は、言葉を交わした訳でも、目に見えたやりとりがあったわけでもない。
なのに、ずっと見守り、見守られていた。ただ、そばに居てくれた。柔らかな光に包まれる感触が、残っていた。
きづけば冷えた身体に、柔らかな毛布を掛けられているような。惜しみなく注がれる、その、あたたかさ、ぬくもり。目に見えないものを、"受けとっている"からこそ感じられる、ひとときだった。

学生時代、大人になってからと畑をする機会に度々恵まれ、季節の様々な野菜の種や苗を植えた。
特段目をかけ手を掛けして、こまめに世話をしていたわけではなかったけれど、ヒョロヒョロでも小さくても、もぎたてを齧るのは、雨水や土の味とお日様の温度を感じられて、格別に美味しかった。
実ったものを家族や友人に分け、喜んでもらえるのも、天に昇るほど嬉しかった。

幾度となく萎れ枯らしてしまっても、大きくても小さくても、実りがあってもなくとも。
誰も何も責めたりしないし、褒められることもない。得手不得手も上手下手もなく、成功でも失敗でもない。
共にすごした月日がある。
ただ、それだけで、そこにはかけがえのない、安心があった。
育てただけではない、自然とともに育まれていたのだ。

いつからか、どこからか、そんな日々のことをすっかり忘れてしまって、立派な肩書きを演じようとしたり、憧れの人に近づこうと何者かになろうとしたりして、身体を壊し自分を見失うまで自分探し、居場所探しをしたこともあった。

もう、何者かになることも、どこにも探す必要もない。
いつだって、"今、ここ"にある。
ずっとずっと、ここに、あった。
なにげない日々の暮らしのなかで、目に見えなくても感じる心が。

今回は、リレーエッセイHAKKOUの場を仲間と共に開くことができ、暮らしを言葉に表現する運びとなった。

一つひとつ、感じることを拾い上げ、よろこびの種に、恵の水をそそぐ。明るい方へ伸びゆく自然のように。
どこまでも、必要なことに薪を焚べて。
なにげない日常、瞬間に、火を灯しつづける。

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