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【期間限定無料公開】六本木のネバーランド(前編)

短編集「通りすがりのあなた」文庫版発売記念で無料公開します。

■六本木のネバーランド

 ご飯会の場所が鍋屋だと聞いて、私は大いにやる気をなくした。鍋は嫌いではないけれど、せっかくの外食、しかもおごりなら、家では食べられない、もうちょっと贅沢なご飯が食べたかった。はるばる六本木まで、汁と野菜のために出かけるなんて、テンションが全然上がらない。もっと、イタリアンとか、中華とか、焼肉とか、選択肢はいろいろあるだろうに、鍋っていう発想がもうおじさんすぎる。今日は絶対に長居せずに、二十三時には帰りたい。あちらが安上がりで終わらせるつもりなら、こちらだって、サービスを出し惜しみするまでだ。巻きたかった髪は、時間が無くてブローだけで出てきてしまったけれど、気合をいれなくて大正解だった。今日は女の友情を確かめるためだけの消化試合だな……。

「鍋かーー。ごめんね……。まあでも、いかにも東京の独身男って感じの店選びだよね」
 幹事の美咲が、手鏡でマスカラとパウダーのノリをチェックしながら、私の気持ちを代弁してくれた。
「たぶん、接待でコース料理食べ疲れて、野菜が欲しいけど、家で自炊は絶対にしない。で、『よし、久々に外で、鍋食べるか!』……的な?」
「こっちは食べ盛りの女子大生だっつーの」
「ね。がっつり食べるつもりで、ランチ減らして損した。美咲は、今日の人と、どこで知り合ったの?」
「えーっとね、一年くらい前の合コンだったかな? で、別にかっこよかった記憶はないから何もなかったし、それ以来連絡も取ってなかったんだけど、他に外銀の知り合いがいなくてさ」
 美咲は入学以来毎年、広告研究会からミスコンにしつこく勧誘されている人目をひく美女で、私の自慢の親友だ。世の中的には美人は性格が悪いとされているけれど、そんなことはない。小さい頃から愛されて当たり前の環境で育ってきた美咲は、素直な性格で、名前も顔も立ち居振る舞いも、洗練されていて美しい。最初は横にいるとそわそわしたけど、美咲は男に媚びるタイプのぶりっこ系美女ではなく、自分の美しさに自覚があって、堂々と武器にしつつ、男をうまく使い、自分の得た特権を友達に気前よく分け与えてくれるから、一緒にいるとどんどん好きになった。小悪魔、という言葉がとてもよく似合う。
 女っぷりでは負けを認めざるを得ないが、私は私で、自分の持ち味を徹底的に研究した上で、それなりにモテた。これが私たちが仲良くなれた理由でもある。美咲は高身長モデル系美女で、私は低身長小動物系なので、かぶらないのだ。一緒に歩くと、通行人の目はどうしても美咲のほうに向けられるけれど、私は私でちゃんと需要があった。
 二人で合コンに参加するのは、私たちの大好きな遊びの一つだった。お互いにちゃんと彼氏はいたものの、合コンという場所での数時間の恋愛ごっこは、女としての価値が試されて、楽しい。人間観察でもあり、社会勉強でもあり、コミュニケーション能力の向上にも役立っていたんじゃないだろうか。おかげで私たちは、大学二年生になる頃には、どういう対応をすれば、年上の男の人をいい気持ちにさせてあげられるか知り尽くしていたし、東京で旬とされているレストランは、行きつくしていた。一本数万円、時には数十万円のワインにも出会った。
 美咲とは、好きなタイプもうまいことばらけている。美咲は帰国子女ということもあって、毛も顔だちも濃くて、ジムで鍛えてプロテインとかを飲んでいそうな、いかつい男が好きだし(私は「ゴリラ好きな美咲」と呼んでいる)、私は、細マッチョなジャニーズ系がタイプだ(美咲は、私を「モヤシ好きの美幸」と呼ぶ)。
 大学一年生から仲良しの私たちは、二人でいろんな飲み会に参加して、大っぴらには言えないいろんな無茶もした。一時期は「慶應の美咲と美幸」として知れ渡っていたらしい。だけど、そろそろ就活という時期になり、日課だった夜遊びはこのところ控えめになっていた。なんだか悪女のようだけれど、私たちは、女子大生というブランドを武器に、知らない世界を覗く、探検家気分だったのだ。女子大生というパスポートさえあれば、いろんなところに出入りができた。私は、知ったつもりでいた東京という街の面白さに、大学に入ってから初めて気付いたのだ。
 でも、こんなに楽しくて夢みたいなことは、そんなに長く続かないというのはなんとなくわかっていた。夢は期限付きだからこそ、美しいのだ。
 学部では「絶対、アナウンサー試験受けるでしょ」なんて噂されていたけれど、美咲は外資系の投資銀行一筋だと私は知っていた。美咲のお父様は、海外支店の支店長を務めたこともあるメガバンクのお偉いさんで、美咲は金融にすごく興味があるみたいだったし、アナウンサーをあまりいい仕事だとは思っていなかった。
「海外のアンカーウーマンと違って、日本のアナウンサーって、キャピキャピして、完全にタレントじゃない。それに稼げる額も知れてる。私は、長く続けられて、しっかり稼げる仕事がしたいの」
 美咲のこうやって言い切っちゃうところが、私は好きだ。偏見も多いけれど、周囲の顔色を窺っていい子ちゃんの発言ばかりするつまらない女の子より、よっぽど一緒にいて楽しい。
 今日は本気合コンではなく「外銀の仕事の中身をもっと知りたいんだけど、男の人と二人だと口説かれそうで面倒くさいから、一緒に来て」という美咲に付き合って、外資銀行マン二人とのご飯会だ。
 口説かれたら面倒くさいと言っていたくせに、一回会ったことがあるだけらしい星野という男に、美咲はやたら愛想を振りまいていた。もしかしたら、とことん気に入られて、インターンに推薦してもらおうとか、他の部署の人を紹介してもらおうとか、そういう下心もあったのかもしれない。
 いくらお給料が高いとはいえ、英語や数字まみれで苦しそうな外銀の仕事には興味ゼロの私は、省エネモードで、淡々と鍋を食べ続けていた。来る前は、モツ鍋という食べものを完全になめていたけれど、ぷるぷると新鮮なモツは臭みがなくて美味しく、くたくたになったキャベツやニラはいくらでも食べられた。ニンニクもたっぷり入っていて、美容にも良さそうだ。この冬は、モツ鍋屋さんを開拓してもいいな、そんな気ままなことばかりが、頭の中を巡っていた。
 話に集中している美咲が、私のお皿に鍋をどんどんよそってくれるので、私は食べる要員に徹しつつ、場をつなぐために、星野が連れてきた森さんとたまに会話のラリーをした。森さんは、色黒で目の大きい星野に比べて、少し奥手な印象を受けた。体の線は全体的に細く(だから美咲のタイプからは外れる)、激務のせいか、頰が少しそげていた。小さめの目は充血していて、肌も不健康に青白い。美容院に行く余裕がないのか、髪の毛が少し重くて、それが疲れたオーラに拍車をかけていた。
 森さんは、自分からはあまり話さなかったけれど、星野と美咲が繰り広げる会話を柔らかく微笑みながら聞いていて、適度に合いの手をいれたりしていた。ちょっと見た目が頼りなさすぎて、イケメンだとは思えないが、品が良くて感じもいい。退屈な飲み会の、暇つぶしの相手にはちょうどいい。
「森さんも、投資銀行歴、長いんですか」
「そうだねー、俺はもう何社も経験してる」
 森さんの話によると、投資銀行というのは、成績を上げないとがんがんクビを切られる残酷な世界らしい。クビを切られるときは、朝いつも通り会社に行ったら、入館証が使えなくなっていて入れなかったり、昼休みに「今クビになったから十五分以内に荷物をまとめてこのビルを退去しろ」とか言われたりするという。
「俺はまだクビになったことはないけど、同僚は何人もクビになった。体力もそうだけど、心が強くないと、続けられない仕事なんだよね……。前にいた会社では、ドラッグを使いながら仕事してる人もいたし、自殺した人もいたし、うつ病になったやつもいる。俺も、明日は我が身と思いながらなんとかもってるよ……」
 つらい仕事だと聞いたことはあるけれど、思った以上に狂った世界だ。美咲は、なんでそんな厳しい世界に自ら飛び込むのか、よくわからない。
「ちゃんと寝れてますか」
「今は落ち着いてるけど、忙しい時期は、睡眠二時間とか。四時間寝られれば御の字かな」
「よくそれで生きてられますね」
「それでも、金融の仕事は好きだし、まあ、他のやつらも同じ条件で働いてるから弱音ははけないって感じかな」
「支えてくれる彼女とかはいないんですか」
 私は、女子大生という無敵の肩書を武器に――きっともう二度と会わないだろうと思ったから、ということもあるけれど――ずけずけとプライベートを聞いた。
「欲しいとは思うんだけど、ここ何年か、作る暇もなくて」
 いつもは、忙しくて恋なんてしないという人はうさん臭く感じるのだけど、森さんの顔は本当にくたびれていて、真に迫るものがあった。仕事以外、本当に何もない人生だとしたら、可哀相だ。どんなに高給取りでも、命を削るようにしてお金を貰っているなんて、同情する。彼女もいなくて、毎日ストレスと戦って、稼いだお金も使う暇がなくて。そんな人生、何が楽しいんだろう、と思ったけど、さすがに常識は持ち合わせているので、ぐっと飲み込んだ。その日は、ラインだけ交換した。
 帰り際に「今日はありがとう、楽しかったです」と社交辞令的なラインがきて、私も「今日はごちそうさまでした。また、どこかで」とだけ返した。

 森さんから、再びラインが来たのは、その一ヵ月後だった。
「美幸ちゃん、僕の家に住まない?」

 森さんの話を要約すると、二ヵ月ほど、研修でニューヨークに行くから、その間、森さんの家を自由に使っていいということだった。私がご飯会の時、早く帰りたいばかりに「電車がないので」「家が遠いんです」と連呼していたのを覚えていて、連絡をくれたらしい。実際、都内の一等地に住んでいてどこへでもタクシーで行ける美咲と違い、私の家は神奈川の、しかも、混雑がひどいことで有名な路線上にあった。夜の電車や駅では三回に一回の割合で、大人の粗相を目撃して、うんざりした。
 家までの道のりが遠く思える日は、友達の家に泊まったりもしていたけれど、それはそれで面倒だった。人の家は落ち着かないし、コテやら着替えやらを持ち歩くのもつらい。彼氏は都内の実家住まいで、お泊りはいつもラブホテルだった。
「タダで使っていいんですか」と聞くと「たまに掃除とか空気の入れ替えとかしてもらえるなら、全然いい」ということだった。「向こうで俺が住む家の家賃は会社負担だから、どっちみち、家の家賃は帰ってきた時のために払い続けるの。だから、よかったら住んで」
 掃除と空気の入れ替えなんて、お安い御用だ。私は、翌々日には、森さんの家に鍵をもらいに行った。森さんの家は、六本木ヒルズから徒歩十分のマンションの一室で、部屋は、忙しい男の一人暮らしらしく、かなり殺風景だった。
 ワンルームに、部屋の三分の一を占めるベッドと、作業用デスクと、デスクトップパソコン。小さな本棚には、金融やビジネスの難しい本ばかり。生活の潤いを感じさせるような雑貨や緑は何一つなく、本当に、眠って仕事に行くためだけの部屋だった。人生がつまらなそうな男は、部屋もつまらないな、なんて意地の悪い考えがよぎってしまったけれど、変にその人らしさが染みている部屋だったら、逆に居心地が悪いかもしれない。べらぼうに稼いでいるにもかかわらず、この人は、悲しいほどに欲が無い。部屋は思ったよりも狭い上に、私の嫌いなユニットバスだったけれど、立地は最高だし、別宅として使うには十分だ。
「このパソコンは置いていくから、これも、自由に使って。Wi-Fiのパスワードはこれ。寒くなって、エアコンだけで足りなかったら、クローゼットの奥に電気ストーブがある。今年はまだ使ってないけど」
 森さんは、必要なことを一通り教えてくれた。途中、独身の男の人と二人きりで相手の部屋にいるのだ、と気付き、見返りとして、何かを求められるんだろうか、と思ったけれど、そういう気配はこれっぽっちも感じなかった。森さんって性欲が無いんだろうか。不思議に思ったものの、その質問をして、微妙な空気を作っても、自分が困るだけだからやめておいた。
「行く前にもう少しだけキレイに片付けておくから。俺は、木曜日の昼にここを発つから、その後は自由に使っていいよ」
「気を付けて、行ってきてください。楽しんでくださいね」
 そう言うと、森さんは、はっとした表情になり、その後、「そうか、楽しまなくちゃだね」とにっこりと笑った。
 帰る前に、パソコンのアドレスを知りたいと言われたので教えたら、土曜日の夕方に、森さんからメールが来ていることに気付いた。
 友達との連絡はラインばかりで、メールアドレスはほぼ就活用になっていたから、プライベートの連絡がくることは久しぶりだった。
 
「美幸ちゃん、こんにちは。ニューヨークに無事つきました。たまに、美幸ちゃんにメールを送るので、読んでもらえますか? 返事は、気が向いたらでいいです。月曜からは研修が始まります。たまに、美幸ちゃんの生活も教えてください。では」

 メールには、一枚だけ写真がついていて、たぶん、ホテルから撮ったと思うのだけれど、ニューヨークとおぼしき街の夜景だった。ニューヨークとはどれくらいの時差があるんだろう。こっちが夜の時、あっちは朝なんだろうか。これを書いたのは、朝だろうか、夜だろうか。
 ラインで既読マークが即座につくやりとりに慣れているせいで、メールだと、ちょっとだけタイムラグがあるみたいな感覚があって、面白かった。メールだって、数秒後には相手に届くのだから、そんな前に書いたものではないと分かっているのに、なんだか、すごく時間を経て私に届いたみたいな気がする。もしかしたら、東京とニューヨークという距離感が、そう錯覚させているのかもしれない。
 今、メールを読みましたよ、とラインで伝えたかった。だけど、もしかしたら森さんはあえてメールにしたのかもしれない。メールのほうが、森さんにとっては心地いいのかもしれない。
 私は、その日の夜、ちょうど森さんのおうちに行く予定を立てていたので、慌てずに、ゆっくりと、返事を書くことにした。サークルの飲み会を早めに切り上げ、森さんの家についてから、紅茶をいれて、返事を書いた。
 せっかくだから、森さんの部屋のパソコンを使わせてもらう。自分がいつも使っているノートパソコンとは、キーボードの配置が違うので、打ちづらかった。それに、森さんへの返事を、森さんのパソコンで書く、というのは、不思議な感覚がした。

「森さん、無事に到着されて何よりです。メールって、新鮮で、いいですね。ぜひ、いつでも送ってください。私も、せっかくだから、メールでお返事します。
 写真はホテルから撮ったものですか? 仕事で海外に住めるなんて、羨ましいなあ。
 今日は、大学に一時間だけ必修授業を受けに行って、あとは図書館で美咲と待ち合わせて、冬のインターンのためのエントリーシートを書いていました。美咲は、ご存知のとおり投資銀行志望で、私は広告代理店志望です。まだ、インターンの試験しか受けたことはないのですが、それでも、書類選考や面接って果てしなくて、疲れます。インターンでこれだったら、本番の就活はどうなっちゃうんだろうと、気が遠くなったりもします。この永遠にも思える試験を突破して、社会人になる資格を得て、みんなばりばり働いているなんて噓みたい。電車に乗っているくたびれたサラリーマン全員が神様に思えてきます。森さんなんて、難関の試験を突破して、高倍率の外銀に入っているだけでなく、何年も、しっかりと働いていてすごいです。私も、いつまでも大学生にしがみつかず、ちゃんと仕事ができるように、まずはインターンの選考、頑張ります」

 大学生らしさを入れ込みつつ、森さんの疲れを少しでもほぐすようなメールを意識したつもりだ。私なんかにメールを送ってくるということは、きっと、何かにすがりたい気持ちなんだろう。ロマンチストな男の自己満足な俺語りに付き合わされるのは大嫌いだけど(飲み会で俺語りをする男に出会った時は、聞くだけ聞いた後、思いっきり美咲とバカにするのが恒例だった)、森さんのメールは、どこかしんみりとしていて、心の奥に自然に沁みとおっていった。
 私は、森さんからのメールと、不鮮明な夜景の写真をプリントアウトして、手帳に貼った。
 
 森さんのおうちでの生活は、これまでずっと実家で暮らしてきた私にとって、一人暮らしのプチ体験みたいで、楽しかった。部屋を借りていることがバレたら面倒なことになると思ったので、親には秘密にした。もちろん、美咲にもだ。内緒にしておく必要もなかったけれど、美咲まで部屋を使いたいと言い出したら、面倒くさい。せっかくの隠れ家は、あくまで、自分だけの場所として使いたかった。
 それに、部屋を気前よく貸すなんて、普通なかなかできないことだから、森さんとの肉体関係を疑われかねない。否定すればいいだけの話だけど、そんな風に誰かに思われると、私と森さんの清潔な関係が汚されそうで怖かった。私は森さんの部屋を借りていることも、メールを送りあっていることも、誰にも言わないと決めた。
 隠れ家には週に数回、泊まりに行った。飲み会の後、満員の終電に乗らずに済むのは最高だった。翌朝も、ゆっくり起きたって、一限目の授業に余裕で間に合う。
 空っぽの冷蔵庫に、いくつか食材を入れて、部屋で簡単なパスタやサラダを作ったりした。自宅のキッチンは、料理好きな母の聖域という感じがして、料理はほとんどしていなかったけれど、一人で野菜を切ったり麵を茹でたりしていると、雑念が頭から抜けていって、気持ちがよかった。キッチンはほとんど使われた形跡はなく、調味料は塩しかなかったし、ナイフはあったけどまな板が無かったから、簡単なものだけ百円ショップでそろえた。電子レンジはあったけど、トースターがなかったから、パンを焼くときはフライパンを使った。
 テレビも無かったので、パソコンで適当な動画を物色しながらご飯にすることが多かった。見たい動画が尽きて、好奇心で、パソコンの中の森さんの個人フォルダを開けていったら、「private」というフォルダから、エッチな動画と写真がたくさん出てきた。一つずつ開けていくと、痴漢とかレイプとか、女の人が嫌がっているのに無理やり……というシチュエーションのものが多かった。秘密を勝手に覗いてしまって、申し訳ない気持ちが半分と、性欲が全くなさそうな森さんの男の部分を見れて、可愛いと思うのと半分で、胸がくすぐったくなった。
 ちょっとだけ見てやめてしまうのは逆に失礼な気がして、一つ一つあけて全部見ているうちに、ふと、このフォルダを森さんが残していったのは、私に見せるためでは、という考えが湧いた。私は何かを試されているのだろうか。
 それで、凌辱している男の一人に森さんの顔をあてはめ、女側に自分をあてはめてみたけれど、しっくりこなかった。私にとっての森さんはやっぱり、性の対象じゃない。
 森さんが私に欲情するというのは、受け入れるかどうかは別として、女として光栄なのだけど、どうしても、そういう対象として見られているとは思えなかった。だって、欲情の対象にしては、今までの行動だって、メールだって、あっさりしすぎている。森さんは、一体、何を考えているんだろう。いつも、どんな気持ちでこの家で暮らしていたんだろう。

 彼氏にだけは部屋の存在を伝えて、セックスやお泊りもした。森さんとの関係は疑われたくないので、お金持ちのいとこの家を期間限定で借りているという設定にした。単純で気の良い彼氏は、少しも疑うことなく、嬉々として部屋に現れ「ホテル代が浮いた分、いいご飯ご馳走するわ」と言ってくれた。
 私たちは、お腹が減ると、歩いてヒルズにご飯を食べに行ったりもしたし、同棲気分で、一緒に料理をしたりもした。家の横にはコンビニがあったので、肉まんやおでんなどのあたたかいものを買い込んで、部屋でひたすら漫画を読んで過ごすのも、楽しかった。インターン選考が迫ると、二人で一緒にこもって、就活対策もした。隠れ家生活、最高だ。
 何度も何度もセックスしておいて、こんなことを言うのはなんだけど、実は森さんの家でセックスするのは、あまり気が進まなかった。人の家でのセックスというのは、思った以上に落ち着かない。そんなことはありえないとわかっていても、行為の一部始終を見張られているような気になってしまう。森さんが、そういう趣味の持ち主で、私たちのセックスをリアルタイムで見るための監視カメラがあったりして……、などと妄想を膨らませて怖くなったりもした。けれど、別に悪いことをしているわけではないし、年頃の女子大生に部屋を貸したら、男の一人や二人連れ込むことぐらい、向こうも承知の上だろう。

▼4月15日発売

解説:岩井俊二
「きっと人間の美しさも醜さも飲み込んで、
太宰のようなかつてない作家になっていくに違いない」

後編はこちら:
https://note.com/ha_chu/n/nb3fbfb43b815


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