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(54)自分とか、ないから。教養としての東洋哲学

【自分とか、ない】

悟った、と言う事は「本当の自分」の答えが見つかったということである。一体どんなものなのか?その答えは「無我」だった。

【逆にどこに自分がある?】

無我とはどういうことか。今僕が自分だと思っているものを一体何なのか。ブッダはこういった。
自分とは、ただの妄想。
本当はこの世界全部つながっている。よく観察すればわかる。
人間の体の細胞は常に入れ替わっている。
一説によると3ヶ月で大体入れ替わってしまう。
そもそもである。身体は食い物できている。
昨日コンビニで買ったチキンを食べたファミチキである。ファミチキなるウキウキした名前について、騙されるが要は「鳥のからだ」である。
ファミチキを食うと言う事は「鳥のからだ」を吸収していると言うことだ。今のあなたの筋肉は昔食べた「鳥のからだ」だ。
自分の体を食べたもの、つまり「自分以外」の物からできているのだ。

【苦しみをなくす、衝撃の方法】

人生の苦しみの原因、それは「自分」なのだ。
全てが変わっていくこの世界で変わらない「自分」を作ろうとする。そんなことしたら苦しいに決まってるやん。

【ブッダと「無我」のその後】

ブッダの教えをあとの時代に伝えていくと弟子たちがブッダの教えを文章で記録して整理することにした。これが「お経」である。
彼らのおかげでブッダの教えは「仏教」となって僕たちに伝えられた。
でも、問題にぶち当たった。
ブッダの「無我」、難しすぎたのだ。
700年の時を経て、とんでもない。

天才が現れて状況は一変した。
彼はインドのすべての学者を論破してしまったのだ。仏教は、再びシンプルで、みんなのための教え、「大乗仏教」となって復活を遂げたのだ。
その天才の名前は「龍樹」という。

【インド中を論破する】

龍樹は天才であったが、頭でっかちではなかった。黒歴史を経て、仏教の道に入ったのだ。
「人間性終わってでも変われる」ということを表現である。
そして、700年間の議論のすべてを「くだらねぇ、言葉遊び」と論破し、衝撃の結論に至る。
龍樹によって、200巻のボリュームになっていたブッダの教えはわずか一文字になったのだ。
「空」である。
この世界は、すべて「空」である。

【空】

この世界を全て「空」である。
どういうことか。龍樹の言葉を紹介しよう。
[この世のすべてはただ心のみであって、あたかも幻の姿のように存在している]
※大乗についての二十詩句18
すべては「幻」である。こう言いかえてみよう。
この世界は全てフィクションである。と言うことだ。フィクション。この一言でブッダの「自分がない」と意味が、超クリアになるのだ。

【みんな「言葉の魔法」にかかっている】

[この世界は、言葉の虚構から生じている]
※宝行王正論1-50

この世界は、言葉の魔法が生み出した幻なのだ。
例えば、何の変哲もないおっさん。しかし、ある言葉を載せてみよう。恐ろしいほどの言葉の魔力。
急に体感の筋がびしっと通ったイケオジに見えてこないだろうか。
「社長」「クリエイティブディレクター」「CIA」でも同然だ。
なんかかっこよく見える。
ありのままを見ることが実はとても難しい。
言葉の魔法が生み出す幻は強力なのだ。

【言葉の魔法の正体】

[彼らは〈依存関係による生起〉を本性とする世界を歩みゆく。
※大乗についての二十詩句篇

どういうことか。
彼氏と彼女はお互いに依存して生まれる幻と言うことだ。そんなに難しい話ではない。
彼女がいないのに「私は彼氏です」と主張する人がいたらどうだろうか。めっちゃ怖い。
彼氏は相手がいて初めて成立する。彼氏そのものは存在しないのだ。彼氏彼女と言うのは、お互いの心の中にある幻なのだ。
お互いに言葉の魔法をかけ合って、幻の世界をうみ出しているのだ。
幻であるからこそ、僕たちの存在は絶え間なく変化していく。
「知らん人」→「友達」→「彼氏」→「夫」→(離婚)→「他人」。
同じ人であるはずなのに、次々に変化する。
そして、幻が消えれば、この人も僕たちも何者でもない。「空」なのだ。

【家族もフィクション】

幻なのは彼氏彼女だけではない。恐ろしいことにすべての人間関係に当てはまる。
Q兄と弟どっちが先に生まれた?
読者なめてんのか?
と怒鳴られそうな問題だが、よく考えて欲しい。
常識で考えたら兄が先に生まれたはずだ。しかし答えは兄と弟は同時に生まれたのだ。龍樹によると。
どういうことか。
「兄」&「弟」も「彼氏」&「彼女」と同じ。お互いに依存して成立するのだ。例えば僕は一人っ子である。しかし突然母が出産して、弟が生まれた瞬間、僕は兄になる。つまり「同時」なのだ。
弟も妹もいないのに、私は兄ですと言う人がいたら怖い。関係は2人の間で成立する。

[この世の全てはただ心のみであって、あたかも幻の姿のように存在している]
※大乗についての二十詩句篇18

【すべてはつながっている】

ここで気になるのは「空」がどんな境地なのかである。すべての幻が消えたらどうなってしまうのか?
「虚無」だろうか?
ちがいます。
答えは、「全部つながっている」である。
これを、「縁起」という。

「縁」つまり、関係性で全部つながっていると言う意味だ。エモいよね。

「空」だとあたまで理解しても、悟ってない僕らは「フィクション」の世界からなかなか出られないのだ。基本的に強固なフィクションが消滅したとき「空」やなと感じる。

人間関係が解消することによって、言葉の魔法も消えるということ。面白いのは、人間とのつながりがなくなったときに、初めて自然と繋がれること。

[幻術師が幻を作り出して、次いで消し去ったときにはなにものも存在していない。]
※大乗についての二十詩句篇17


恋人と別れた日の部屋とか、完全にこれだよね!?
「別れ」は悲しいけど、同時に解放でもあったりする。「自分」という存在が、世界と消滅してしまう。「恋人と別れたら死ぬ。」とか、思ったことある人いるかもしれないけど、別れた後、大体みんな健康に生きてるやん。

【すべての悩みは成立しない】

龍樹なら「空」の哲学で、そんな悩みを完全論破してくれる。「空」の哲学から言えること。それは自分の「変わらない本質」は存在しないと言うことだ。実際の龍樹の言葉を見ておこう。
[者の存在に不変の自体(我)を考え、「ある」とか「ない」とかと倒錯する誤りのために煩悩に支配されるから、自らの心によって欺かれる。]
要は、自分の「変わらない本質」があるとおもってるやつはバカと論破している。
バカっていうな。

ここで、まとめてみよう。
「強い/弱い」「ある/ない」全部フィクションである。フィクションの世界を出てしまえば、そこは「空」。
全てが繋がってる「縁起」の世界なのだ。
すべて、縁しだいで、どんどん変わっていく。自分の「変わらない本質」は成立しない。つまり不変の「個性」、不変の「性格」、不変の「アイデンティティ」はありえないのだ。

3章 道(タオ)ありのままが最強

ここから中国編に入る。実はこれから紹介する。多くの哲学は、インドの哲学と驚くほど似ている。
インドで「空」の哲学が生まれて、中国では「道」の哲学が生まれた。「道」もまた「空」と同じように、「この世界はフィクションだ」「すべてのものはつながっている」と言う哲学なのだ。
同じように見える。インドと中国の哲学の1つものすごく大きな違いがある。
ゴールが正反対なのだ。どういうことか。インドの哲学は「この世界はクソ!」だと思っている。もう二度と生まれ変わりたくない。この世界から「解脱」するのがゴール。
一方、中国の哲学は「この世界はサイコー!」だと思っている。だから、仙人みたいにめっちゃ長生きしたい。この世界を「楽しむ」のがゴール。あくまでざっくりね。!
だから、中国の「道」の哲学からは「どうやったら、人生がうまくいくか」と言う処世術も導き出せちゃうのだ。

【僕と「道」】

「空」の章にも書いたが、僕は空っぽになるのは怖かった。
空っぽな自分を切れてくれる人は誰もいないと思っていた。そして実際に離婚し無職になった社会的な「死」が、現実のものとなった。
「空っぽ」なのが。みんなにばれた。終わりだ。でもみんなの反応は全然想像と違った。
社会的な死だと思ったら、むしろ社会的な死から自由になっちゃった。
「俺は無敵だ」そんな感じがしたのである。

そんな僕ら、どうやったら「空」や「道」という「言葉をこえた」境地にたどり着けるのか。その1つの答えが「禅」なのだ。

インドは論理を重視した。中国では経験を重視した言葉をこえるにはどうしたらいいか?
この問いに対して、インドの仏教者たちは超難しい議論をした。しかし、中国生まれの「禅」の回答はひとことである。
「言葉を捨てろ」

【禅とはなにか?】

さぁ恒例の哲学紹介のパートである。あらためて、禅とはなにか。
禅の教えはただひとつ。「言葉をすてろ」これだけだ。

【ピンチな時こそ、言葉をすてる】

ぼくはめちゃくちゃプレッシャーに弱い。なにかうまくいかないことがあると、すぐに「なんで自分はダメなんだ」とおもってしまうのだ。一度そうなると
自分をダメとせめる→目の前の仕事が進まない→もっと自分がダメとおまうという負のループにはまりこんでしまう。
ダメというのがただのフィクションである「空」である。とわかっていてもついこのループに入ってしまうのだ。
「禅」を知る前、パワー系の対処法をとっていた。
自分がダメというフィクションに入ってしまった時自分はデキるという反対のフィクションをつくりだしていたのだ。「うまくいった過去」と「うまくいくはずの未来」をつないだデキる自分のストーリーでとにかくダメな自分というフィクションを上書きする。
そんな心の中のフィクションの上書き戦争はめちゃくちゃ疲れる。
でも禅にあってかわった。
シンプルに「言葉をすてる」。これでいいのだ。

5章 他力 ダメなやつほど救われる

「親鸞」を紹介する。
800年くらい前の平安時代の人だ。
仏教にはたくさんの宗派がある。
空という目的地をめざす上でいろんな交通手段がある。この交通手段のちがいが、宗派とおもってもらえばいい。
親鸞は浄土真宗をつくった。
浄土真宗ではどうやって「空」の境地にいくのか?
徒歩か、電車か、飛行機か。
じつは、そんなレベルじゃない。
「空」のほうが、こっちにくる。

親鸞は比叡山で20年間、誰よりも真剣に激しく修行した。
それでもついに悟れなかったのだ。むしろ「修行している自分はスゴい」という慢心がわいてきた。これは親鸞の言葉である。
[修繕も雑毒なるゆえに、虚仮の行とぞなづけたる。]
どんな善い行いも、邪念の毒があるから。「ウソ」の行為だよ。

悟れないことを認めると「空」のほうからこっちにやってくる。
まさに逆転の発想。これが「他力」の哲学なのだ。

[念仏には、無義をもて義とす。]

念仏はよけいなことを一切しないのが原則。
「悟ろう」っていう意図で念仏したらそれはもつ自力の修行になってしまうから意味がない。
なんも考えず、あー、苦しい!とおもったときに、おもわず手をあわせちゃう感じ。全生命のつながりの中で自然と、手があわさる。手を合わせるというより、あわさる。
そこに自分はきえている。
つらいときほど、自分というフィクションの世界にはいってしまう。
そんなときこそ、絶対的に他力にまかせる。ただ救いを信じる。それだけでいいのだ。

6章 密教 欲があってもよし

密教とは「秘密の仏教」の略である。
これまで紹介してきた仏教哲学では、「現実世界」を「フィクション」だと否定してきた。ところが密教になると、一周回ってこの「現実世界」をまるごと肯定してしまうのだ。

【万能の天才、空海】

空海は当時、世界一栄えていた唐に留学した。
そこで空海は密教を3ヶ月でマスターしてしまった。さらにお寺のトップに「密教」の正式な後継者として指名されたのだ。

【なりきることのパワー】

あこがれの人も自分をつくる。
マンガの主人公、アイドル、芸術家、経営者、かれらに、「なりきる」時期があって自分がつくられてきた。
そうだよね?!
「なりきる」こそが「自分」をつくる。
自分をこえたでっかい自分になる。空海はそれを「大我」と呼んだ。
密教もブッダの流れをくむ仏教だ。
ブッダは「無我」といった。
自分はフィクションだ。
空海は「大我」かといった。自分がフィクションなら逆にどれだけデカい存在にもなれる!
「無我」だからこそ「大我」になれる。

【大日如来になりきる】

大日如来とは、
「身」・・・同じポーズで
「口」・・・同じ言葉つかい
「意」・・・同じ心をもつ
である。これを三密という。



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