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功利主義の罠

「なぜ人を殺してはいけないのか?」
「なぜ人は生きるのか?」

このような"答えのない"問いに対して、様々な学問から多くの人が挑んできた。
今、この文を読んでいるあなたも、上記のいずれか、もしくは両方の問いについて一度は考えたことはあるのではないだろうか。かくいう私も高校生頃からずっと考えてきた。

しかし、新しい価値観に出会うたびに答えは変わり、よくわからなくなってしまった。

そんな時に出会ったのが、クロード・レヴィ=ストロースである。彼の価値観に出会い私なりの結論が出た。その答えは、実はすでに一行目に記している。

それは「答えがない」ということである。

答えは、解なし。
文系の私は数IIの虚数の問題を解いている時に「解なし」という答えに出会いやる気がなくなった覚えがある。

ところで私はなぜ「解なし」という答えが気持ち悪いと感じたのだろう。

それは数学の問題には数字の結論が出せると思っていたからだ。では、「なぜ」という質問に私たちが求めている答えはどのような"形"なのか?

それは、メリットがあるかどうかである。

例えば、なぜスポーツをするのか?という問いに対する回答は様々あるが、健康になれるとか楽しいとかそういったものであろう。つまり、自分にとってどのようなメリットがあるのかを答えている。

ここで最初の問いに立ち返る。

なぜ人を殺してはいけないのか。
なぜ人は生きるのか。

生きたい人の権利を奪ってはいけないからとか、遺伝を残すためとか、世の中に何かを残したいからとか。
色々考え得るが、それら全ては決して普遍的なものではない。全ての人間を納得させられる回答ではない。

もしその条件に当てはまらなければ殺しても良いのか?生きる必要はないのか?例えば、生きたいと思えていない人は殺し良いのか。遺伝子を残せない病気の人は生きる価値がないのか。など

おそらく、どんな回答をしても、このように説明できない部分が生まれる。

なぜなら、人を殺してはいけない理由や生きる理由を功利主義的思考で考えることの前提が間違っているからだ。すなわち「なぜ」という問いの設定が間違っている。

レヴィ=ストロースは「全てのルールは理想とする社会状態のために誕生するわけではなく、ルールそのものが社会状態である(※自己解釈)」と述べていた。

要するに全てのルールは合理的な目的を持って生まれたものではなく、便宜的に決められたルールによって目的が生まれることもあるのだ。

よって、世の中のことを全て功利主義的に「なぜ」を追求して考えると行き詰まるのは、そこにそもそも回答が存在していないからだと私は考えている。

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