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釣りエッセイ「春を告げる道」

「この道は誰にも知られてはならない」
 ここ数年、そんなことを思いながら4月1日に必ず歩く道がある。今年も濃いサングラスをかけてネイビーブルーの帽子を被り、人に見つからないようにこっそりと、高速道路の高架の影に車を停めてその道へと向かう。

 時間は早朝の6時半ごろ。薄曇りの空が地上まで降りてきたような霧の中、両手いっぱいに荷物を持ち、膝まであるオリーブ色の長靴、風景に溶け込める緑色のジャンパー、カーキ色のズボンを身にまとい、白い息を吐きながら畑の横を流れる川沿いの土手道へと進む。頭上からは高速道路をゴーッ、ザーッと走る車の音、道の先からは微かに水が流れる音が聞こえる。  

 少し歩くと入り口を兼ねているゲートが現れる。太めの鉄の棒を針金で括り付けた簡素なもので、高さは身長が165センチの私よりも少し低く、激しく錆び付いて枯草の多い周囲の風景に溶け込んでいる。秋の草刈りで芝生のように短く刈られ、厳しい冬の寒さで所々が茶色く枯れ、朝露でしっとりとしめっている。土は冬に霜柱が立ったり溶けたりを繰り返してふかふかしてもろもろとほぐれて足を置くと少し沈み込んで歩きやすい。湿った枯草からは農家の納屋のような懐かしい匂いがする。

 ゲートを抜けて両手を左右いっぱいに開いたよりも少し広い道幅の道を歩いていくと、ところどころに蔦のような草や野ばらの棘が邪魔をする。先を急ぐこともあり少し焦って転びそうになる。立ち止まって落としかけた荷物を持ち直して先を進む。右側には畑が広がり、左側は崖のように落ち込み2メートルほど下には大きな岩や石がゴロゴロと転がる川が流れている。そのまま100メートルほど進むと道は右方向へと緩くカーブしているが、その川側に鉄パイプで作られた下へと降りる階段があらわれる。その錆びて古びた階段を慎重に降りるとソフトボールからボーリングのボールほどの不揃いなサイズの石があきれるほど転がる川原へと辿りついた。

 今日は渓流釣りの解禁日。これまでの道のりは一昨年に見つけた穴場の釣りスポットへたどり着くまでの道なのだ。対岸は木が茂っていて近くを走る道路から見えにくく、後ろは畑の奥に位置して見つかりにくいこの場所を誰にも知られたくないので、人の目を気にしながらこっそりと歩いてくる必要があるわけだ。

 到着してから陽が高く登るまで解禁日の釣りを楽しんだ後、同じ道を歩いて自分の車へと戻る。昨年の8月末から昨日まで釣りをおあずけされていたので、行きの道は期待に胸を膨らませてワクワクしながら歩いて来たが、帰り道は確かな釣果で重たくなった荷物に心地よい疲れを覚えながら歩いている。

  釣った魚の食べ方などを考えながら歩いていると、少し甘い香りが漂ってきて停めた車の向こう側に満開の大きな八重桜が見えた。華やかな花弁が鞠のようにまとまった姿は可憐で遠目でも見とれてしまうほど美しい。行きの道では方向が逆である上に釣り場へ行くことに夢中で気づかなかったのだ。釣りのことばかり考えて、春を楽しむ余裕を忘れていた自分を少し恥じながら、車の向こうの八重桜へと近づいてみる。 

 春を告げる八重桜を見ながら歩く帰り道は行きの道よりも華やかで、素晴らしい春の訪れを予感させた。


■コメント
 春期に受講した「文芸演習1」で提出したレポートの原文になります。
 実際に提出したものは改行でスペースを空けていませんが、こちらでは読みやすいかと思いスペースを空けるなどの変更をしていますが、その他は提出したレポートと同じものになります。
 もうひとつのレポートと合わせて点数は85点だったので、一応、及第点といったところでしょうか。
 一度レポートを提出して、それを受講生同士で相互で論評してブラッシュアップして最終提出する形式になりますが、人からアドバイスを受けることで気づきもあって良い仕組みだと思います。


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