妄りに創作はせず、古典を愛す

述而第七 174知らずして之を作す者有らん

(原文)子曰、蓋有不知而作之者。我無是也。多聞択其善者而従之、多見而識之、知之次也。

(書き下し)子曰く、「蓋し知らずして之を作る者有らん。我は是れ無きなり。多く聞き其の善き者を択びて之に従い、多く見て之を識すは、知るの次なり。」と。

(口語訳)先生が言われた、「思うに、〔世の中には〕知りもせずに創作する者がいるであろう。〔しかし〕私は、そんな態度をとらない。多くのことを聞き、〔その中から〕善いものを選び出して従い、多くのものを見ておぼえていく。〔こうした人間は〕知者に次ぐ者である。」と。ー『鑑賞中国の古典2 論語』(角川書店)

子曰。[今時世中ノ物シリ共ノ中ニハ]蓋有不知而作之者[知リテ作ルハ.聖人ナリ不知シテ作ルハ.妄人ナリ.今世ニ伝ハレル中ニテハ周礼戴記等ニ載セタル所.妄作ト覚ユル事ドモ多シ]我無是也。多聞択其善者而従之。多見而識[覚エオクナリ]之。[聞ク方ニハ択ムコトノミヲイヒ.見ル方ニハ識スコトノミヲイフ.是モ互見ノ文法ナリ]知[知テ作ル聖人ヲサス]之次也[イハユル述而不作ナリ]ー『論語參觧』五巻 鈴木朖(離屋)∥著 名古屋 秋田屋源助 明治7刊 5冊

述而第七 148述べてつくらず

(原文)子曰、述而不作、信而好古、窃比於我老彭。

(書き下し)子曰く、「述べて作らず、信じて古を好む。窃かに我を老彭に比す。」と。

(口語訳)先生が言われた、「〔古典を〕祖述して創作をせず、昔のことを信じて愛好する。窃かに自分を老彭にならべてみる。」と。ー『鑑賞中国の古典2 論語』(角川書店)

この章は、漢代になって興ってくる経学(儒教に古典に基づき儒教を体系化した学問)の基本的考えとなったものの一つである。すなわち、経学では、世界・人間の知恵は、すでに聖人が(作って)いるとする。その記録がいわゆる古典である。とすれば、一般の凡人ごときが、聖人を超えて知恵を作る(創作する)などということは、おこがましいことになる。……古典を読んで注解し、そこに託して自分の意見を述べてゆくという、独自の考えが経学に生まれてくる。その結果、漢代以後、清朝末に至るまで、経学は壮大な古典解釈学を形成していったのである。ー『鑑賞中国の古典2 論語』(角川書店)

『東坡題跋』より 「葉致遠蔵する所の永禅師の千文に跋す」 

永禅師欲存王氏典刑、以為百家法祖。故挙用旧法非不能出新意求変態也。然其意已逸于縄墨之外矣。云下欧虞殆非至論。若復疑其臨放者又在此論下矣。ー『蘇黄題跋』「東坡題跋 上」大坂岡田群玉堂 天保2年

永禅師、王氏の典刑を存し、以て百家の法祖と為らんと欲す。故に、旧法を挙用して新意を出し変態を求むること能わざるにはあらざるなり。然も、其の意已に縄墨の外に逸す。欧・虞より下ると云うは、殆ど至論にあらず。若し復た、其の臨放なるかを疑うは、又此の論の下に在り。

智永は、王羲之の伝統的な書法を身につけ、そして(後の)多くの書家の書法の祖(ともいうべき存在)になっている。それゆえ、みな王羲之の古法を用いながら、新鮮な趣(新意)を出して新しい書の有り様(変態)を自分のものとすることができていないということはないのである。そのうえ、その新鮮な趣というのは、すでに規範(王羲之の古法)の外に放たれている。欧陽詢や虞世南より劣るというのは、きっと至極もっともな意見ではないだろう。もしまた智永の千字文は(王羲之の書を)臨書したものであろうかと思うのは、さらにそれより劣る考えである。




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