“少女マンガ”は差別表現なのか。
先日、これまでとは少し毛色の違う講演会に参加させていただいた。テーマは、「差別表現について」。出版・人権差別問題懇談会という、長年にわたって差別表現について学ぶ出版業界による勉強会が主催だった。
これまでは、「多様性」「教育」「チャレンジ精神」といったテーマがほとんどだった私にとっては、おそらく初めて与えられたお題。これにはいつも以上に気合いが入った。
講演会で話すテーマとしては初めてだったが、
・「障害」と「障がい」について
・なぜ「カタワ」は差別用語なのか
・障害を笑いのネタにするのはNGか
といったあたりのことは普段から考えに考え抜いてきてたことなので、それらの要素をうまく散りばめつつ、「差別表現とは何か?」というテーマに沿った内容に構成しつつ、講演会に臨んだ。
正直、言葉は生き物であり、世の中の価値観もどんどん変化している時代において、「どの言葉がアウトで、どんな表現ならセーフなのか」といった線引きに正解はないのだと思っている。特にジェンダーにまつわる言葉に対する世の中の敏感さは年々鋭さを増しており、「数年前にはセーフだったものが、今はアウト」と感じられるものもある。
たとえば、数年前にあった本当の話だ。ある新聞社からインタビュー依頼が届き、いざ取材の段取りへと移ったとき、こんなメールが届いたのだ。
「それでは当日、記者1名と、カメラパーソン1名とでお伺いします」
カメラ……パーソン??
あまりに見覚えも聞き覚えもない言葉に、私の思考はしばらくフリーズしてしまった。なるほど、カメラ「マン」がよろしくないのだろう。「保母」が「保育士」になり、「スチュワーデス」が「キャビンアテンダント」になった時代の延長線上に“現在”があることを考えればむしろ自然なことかもしれない。
だが、やはり長年親しんできた言葉がある日突然「悪者」にされ、社会から抹殺されゆこうとするその瞬間を目の当たりにして、40年以上の時を刻んできてしまった私には、やはり戸惑いといった感情をまったく抱かずにいるのは難しいことだった。
さて、話が横道に逸れたが、無事に講演会の本編が終わり、質疑応答の時間となった。何人かの質問を経て、“その質問”は終盤になってぶつけられた。
「私たち出版業界では、いわるゆ週刊誌というものが出版されており、そこには漫画誌を中心に『少年漫画』『少女漫画』などといったラベル付けが行われています。それは今後、正していくべきなのか、そこまでこだわる必要はないのか、乙武さんのお考えをお聞かせください」
思わずニヤけてしまった。これは面白い。これまで考えたこともない視点だった。しばらく考え込んだ私は、おもむろに顔を上げ「これは非常に興味深いテーマですね」と口を開いた。
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