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「官邸 vs 東京新聞・望月記者」のバトルで忘れてはならない視点。

「官邸 vs 東京新聞」のバトルが続いている。「菅義偉官房長官 vs 望月衣塑子記者」と言い換えたほうがピンと来る方も多いかもしれない。

この問題に関する意見を眺めてきたが、ざっと整理すると次のようになる。

《右陣営》
「望月記者は事実誤認が多い。あきらかに勉強不足だ」
「記者会見は、記者の持論を発表する場ではない」

《左陣営》
「権力による言論弾圧だ」
「政権にとって都合の悪い記者を排斥するなど許せない」

この件に限らず、政治思想という色メガネをかけてニュースと向き合うと、どうしても“勧善懲悪”の物語がつくられてしまい、本質が見えにくくなってしまう。それぞれの思想に基づけば、右陣営の意見も、また左陣営の意見も正論であり、正解になるのだろう。

すでに意見が出尽くした感のある左右それぞれの言い分。そのどちらかを、あえてこの場でなぞっていくことには魅力を感じない。むしろ、私は政治的な文脈から離れて、「メディアはどうあるべきか」という視点から論じてみようと思う。

昨年12月28日、官邸は上村秀紀報道室長名で内閣記者会に対して次のような文書を出している。

東京新聞の当該記者による度重なる問題行為については、総理大臣官邸・内閣広報室として深刻なものと捉えており、貴記者会に対して、このような問題意識の共有をお願い申し上げるとともに、問題提起させていただく次第です。

これに対して、今年2月5日、新聞労連は次のような声明を出して抗議の声を上げている。

記者会見において様々な角度から質問をぶつけ、為政者の見解を問いただすことは、記者としての責務であり、こうした営みを通じて、国民の「知る権利」は保障されています。

〈中略〉

官邸の意に沿わない記者を排除するような今回の申し入れは、明らかに記者の質問の権利を制限し、国民の「知る権利」を狭めるもので、決して容認することはできません。厳重に抗議します。

この応酬こそ、まさに先述した「右 vs 左」の構図そのものなのだが、私はこれを読んで“ある違和感”を抱いてしまった。

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