「前へならえ」を前提とする教育は、この国をどこに導いていくのか。

前回の記事では、不登校YouTuber「ゆたぼん」について賛否が渦巻いていることを取り上げつつ、そこに抜け落ちていると思われる視点について指摘した。

わずか10歳の少年の是非を論じる前に、彼が「まわりの子どもがロボットに見えた」と評した現在の学校教育のあり方そのものを論じることのほうが、よほど有益なのではないかというのがその主旨だ。

さて、今日は前回の記事を受ける形で、その「学校教育のあり方」について論じてみたいと思う。ここで述べることは、教育関係者の間ではもう何年も語られていることだが、こうした内容は一部の専門家たちだけの間で共有されるのではなく、広く一般的に議論されるべきだと思うので、私なりの視点を交えながら、あらためて論じてみたいと思う。

「個性を大事にしよう」

教育現場でこんなお題目が唱えられるようになって久しいが、この言葉をどれだけ実践できているかといえば疑問が残る。もちろん、なかには担任教師の方針などによって「十分に個性を尊重してもらえた」という個人的経験を持つ方もいるだろうが、一般的に「学校」とは「個性を消さないと生きづらい場所」として理解されているのではないだろうか。

子どもたちの個性をどう扱うかという問題は、すなわち「自由」と「規律」のバランスをどう考えるかという問題と直結する。話が込み入ってくる前に、まずは私なりの結論から述べようと思う。

               ------✂------

ここから先は有料公開となります。

個別の記事を数百円ずつご購入いただくよりも、月に20本近い記事が配信される定期購読マガジン(月額1,000円)をご購読いただくほうが圧倒的にお得です。

記事の更新はみなさんからのサポートに支えられています。ぜひ、この機にご登録をお願いします!

「乙武洋匡の七転び八起き」
https://note.mu/h_ototake/m/m9d2115c70116

ここから先は

2,063字

¥ 300

みなさんからサポートをいただけると、「ああ、伝わったんだな」「書いてよかったな」と、しみじみ感じます。いつも本当にありがとうございます。