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(書評) 深く澄んだ、言葉の花束---長田弘の本


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日常の中で心が疲れたり、落ち着かない時に、よく長田弘氏の本を読む。

氏(2015年没)は、現代日本を代表する詩人の一人だが、エッセイや読書論の本も多数出している。
詩人ならではの、磨き抜かれた美しい言葉で書かれたそれらの本を読むと、辺りの空気が綺麗になり、心が浄化される気がする。私はいつも、深く澄んで、しんと静まった湖を連想する。静かに心を整えてくれる。


「…予定をつくらない。時刻表をもたない。ただちがった街へゆくのである。何をしにでもなく、何のためでもなく、ちがった街のちがった一日のなかに、身を置きにゆく。そんな旅ともいえない短い旅が、好きだ。

 ちがった街には新しい気分がある。日常なじんだ街ではつい何ということなくやりすごしてしまう。そんな街のなりわいや賑わいが、ちがった街では思いがけず新鮮に見えてくる。新聞が変わる。バスがちがう。市場がめずらしい。家並み。路地。何でもない挨拶の言葉が、ふしぎに耳にのこる。

 ちがった街の人混みのなかには、明るい孤独がある。くせで急ぎ足になって、急ぐ必要のなかったことを思い出す。 何よりいいコーヒー屋を見つけること。扉を押す。空いた椅子に座る。すると、その街がずいぶん会わなかった友人のように思えてくる。いいコーヒー屋のコーヒーには、その街の味がある。

 ちがった街の一日のはじまりには、朝の光りと、朝のコーヒーがあればいい。知らない街の気持ちのいい店で、日射しにまだ翳りのある午前、淹れたてのコーヒーをすする。…ちがった街では誰に会うこともない。忘れていた一人の自分と出会うだけだ。

 その街へゆくときは一人だった。けれども、その街からは、一人の自分と道づれでかえってくる。(「ルクセンブルクのコーヒー茶碗」より、中略)

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フルブライト奨学金を受けてアイオワ大学に滞在していた氏は、アメリカ中を旅して、極上のロードエッセイ『アメリカの61の風景』をはじめ、氏の琴線に触れたアメリカの市井の人の話も多く書いている。世間では無名だが、それぞれ精一杯生きた人たちの話だ。それらを読むと、遠い国の知らない人達を身近に感じる。


たとえば、イリノイ州ゲイルズバーグのビッカーダイクおばさん。南北戦争の頃に、街出身の兵士たちが多数負傷して"虫けらのように”死んでいった時に、現地に赴いて、将軍に「私は神の指図しか受けませんよ」ときっぱり宣言し、劣悪な環境にいた負傷兵に栄養をつけるため、自分が先頭に立って毎日膨大な量のパンとパイとクッキーを焼き(テントが不足していたので当時のリンカーン大統領に直訴。リンカーンは自分の原稿を競売に出して費用を作った)、負傷兵に熱い風呂と清潔な衣類と新鮮な空気と食物を与えるため奮闘した、ごく普通の未亡人だ。

「死んでゆく人たちの魂の救済以上に、まずどんな貧しいこころの人びとも生身の人間であるからには快適に生きる権利があります」という持論を身をもって実践した。

「ビッカーダイクおばさんのやったことは、後世に何一つのこっていない。……過去というものにどんな意味があるのかということを考えるとき、わたしは、この、ひとにふさわしい人生の時間をとりもどすための戦争を、もっぱら素手で戦って、ほかに何ものこさず、百年のむかし、思うままじぶんの心意気をとおしてすっぱりと生きたゲイルズバーグの一人の女性の生き方を思いだす」(「ゲイルズバーグの人」より)

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アリーおばさんの話も印象的だ。高齢のアリーおばさんは、アメリカの物凄く不便な山奥(誰も来ない)の"ポツンと一軒家”で、野菜を作り、豚や鶏を育て、自給自足の一人暮らしをしている。寒さが厳しく高齢者にはきつい環境だが、おばさんは弱音を吐かず毎日の作業に励んでいる。たまたまそこを訪れた若者達が、おばさんの話を聞いて感心し、冊子にまとめた。長田氏は、雑貨屋でそれを見つけた。

氏は都会の有名書店だけでなく、田舎の小さな書店もマメに訪れて、無名の人達が書いた伝記や詩集などにも丹念に目を通し、琴線に触れたものを多く紹介された。こうして氏の本で取り上げられなければ、誰にも知られずに終わってしまうような、名もない市井の人達のエピソードばかりだ。


「……じぶんたちの力で暮らすのは、毎日毎日のたいへんな仕事をちゃんとできなければできないことだけど、でも、たいへんな仕事ほど楽しい仕事はないのですよ。
ほんとうですよ。

働くのがたいへんだったからこそ、私たちは毎日が楽しかった。ユリシーズ(亡き夫)と私は、このテーブルについて、椅子に座って、今日のじぶんの仕事のこと、そして今日見たこと感じたことを、毎夜、何時間も何時間も、おたがいに話して過ごしました。話すことがあって、話すひとがいる。それが私ののぞんだ、いい生活です。

ユリシーズと私は、いい生活を共にしました。ユリシーズが亡くなってからは、周りのいろんなものが、私の毎日の話し相手。林檎もね、ブラックベリーもね、トウモロコシもね、みんな話すのですよ。ほらね。(何も聴こえないと言うと、断固として)、ちゃんと耳を澄まさなければ、だめ。

アリーおばさんがとても大事につかっているのは、三つの言葉です。ハード・ワーク、たいへんな仕事。グッド・ライフ、いい生活。そして、リヴィング・バイ・マイセルフ、じぶん自身で生きること。」(一部略)

心が疲れたときは、地に足のついた、美しい言葉で書かれた氏の本でコーヒーブレイクをどうぞ。

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長田氏の本は沢山あり、どれもおすすめですが、遺作『ことばの果実』は長田弘ビギナーにも読みやすい内容です。私はロード・エッセイ『アメリカの61の風景』で、アメリカという国と人々の本当の姿に触れた気がしました。



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