見出し画像

Between Women――与謝野晶子と山川登美子

※2015年4月4日のブログ記事を移転しました

昨日、歌集のSkype読書会に参加した。
青空文庫に登録されてる歌集をどんどん読んでいこう、というもの。
前回が北原白秋の『桐の花』で、今回は与謝野晶子の『みだれ髪』の前半。レジュメを担当させていただいた。

『みだれ髪』、これがなかなか難しい。
逸見久美『新みだれ髪全釈』がなければ意味が取れない歌ばかりだった。
「神」が恋人、「紅」「紫」が恋の暗示、といった晶子ルール(明星ルール?)の他、前提知識がないと読み解けない歌が多い。

全体で気になったのは字の余り方。特に三句と結句が余る。
三句と結句は上の句と下の句の終わりなので、ここが余る場合、他の句が余るよりもずっと気になる。
有名な歌でも、

淸水へ祇園をよぎる櫻月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき
みだれごこちまどひごこちぞ頻なる百合ふむ神に乳おほひあへず

が破調。
だが、これはおそらく、晶子の韻律感覚が、我々の今の韻律感覚と違うからだろう。
我々の時代では、たまに五七五七七=4/4拍子5小節、と言われるけれども、
与謝野晶子自身の朗読を聴くと[注:2018年6月21日現在リンク切れ]、晶子の中に流れているのはそうした西洋音楽的な韻律感覚というよりは、もっと「和」のリズムであることがわかる。

まあ全体の話はそのぐらいで。
僕が『みだれ髪』でどきどきしたのは、晶子の鉄幹への相聞歌というよりは、恋敵・山川登美子への歌。
鉄幹への歌なんて、そりゃ上手いに決まってるんですよ。
で、親が勧めた縁組を断りきれなかった登美子が鉄幹との恋を諦めたのに対し、晶子が「負けないで強く生きてね^^」みたいな、なんだその余裕はよ、みたいな歌をたくさん送ったのも知ってました。
だけどもっと、 こういう歌もある。

おもひおもふ今のこころに分ち分かず君やしら萩われやしろ百合

「分つ」 は「区別する」という意味。「しら萩」は晶子の雅号、「しろ百合」は登美子の雅号。
「互いに思い合う心は二つに区別できるようなものではない。君がしら萩で、私がしろ百合でしたっけ? わからなくなってしまいます」ぐらいの意味。
リフレイン的技巧が冴えていて愛唱性がある。
自他が区別できなくなるほどの一体感、この愛の強さ。

は二十(はたち)ふたつこしたる我身なりふさはずあらじ恋と伝へん

「友は二十歳で、二つ年上の私である。相応しくないことはないだろう、私たちの関係を恋であると伝えましょう」。
本当は一つだけ年上だったらしい。
直接的すぎて歌としてはあまり上手くないかもしれないけれども、この歌あたりから、僕はイヴ・セジウィックの『Between Men 男同士の絆』の議論を思い出す(単純ですね)。
ルネ・ジラールの「欲望の三角形」を援用して、セジウィックは「性愛の三角形」をホモ・ソーシャルに見出す。
そこで語られていたのは女を愛し、奪い合い、交換することで深まりゆく「男同士の絆」だったけれども、与謝野晶子と山川登美子の「女同士の絆」は、鉄幹を愛することで強まったのではないか……なんて雑な話でしょうか。

友のあしのつめたかりきと旅の朝わかきわが師に心なくいひぬ

『みだれ髪』の前半を読んで僕が一番惹かれたのはこの歌。
鉄幹、晶子、登美子の3人で粟田山に旅行したときの歌である。「友」は登美子、「わかきわが師」は鉄幹。
「登美子のあしが冷たかったのです」と告げたときの、そのかすかにセクシャルな響き。ぎりぎりな空気感。
この「あし」が「手」だったり「首」だったりしては、おそらく色気が濃密すぎた。
「あし」が触れあっていたというその距離感が良い。

面白いのは「心なく」だと思う。
何気なく言ったことを何気なく覚えていて何気なく詠んだ? 
そんなことァないだろう。晶子は分かって詠んでいるのではないか。
似た技法を使ったものに、

ふさひ知らぬ新婦(にひびと)かざすしら萩に今宵の神のそと片笑みし

という歌もある。
難しい歌だけれども、「ふさひ知らぬ」は「ふさわしいことを知らない」、「しら萩」は晶子の雅号、「神」は恋人、「そと片笑みし」は「ちょっと微笑んだ」の意。
すなわち、「しら萩」という雅号を使っている新婦が無造作にしら萩をかんざしにしていて、それを見た恋人が微笑ましく思ったということ。
ふさわしいことを知らなかったはずの晶子自身がメタ視点で歌を詠む。
熱い恋に夢中で胸を灼かれているような歌が印象に残りがちだけれども、こういう冷静な目も晶子は持っているわけだ。



研究経費(書籍、文房具、機材、映像資料など)のために使わせていただきます。