閻王の口や牡丹を吐かんとす――『みだれ髪』後半5首選
※2015年4月26日のブログ記事を移転しました
千種創一さん主催「青空勉強会」の第4回、与謝野晶子『みだれ髪』の後半戦が4月25日に行われた。
前回の僕の感想はこちら。
最近ブログ更新にかけられる時間が限られているので、ごく簡単に今日の感想をまとめる。
発表担当は、結社「塔」、同人誌「穀物」の濱松哲朗さん。
「頻出する韻やリフレイン、それに基づく調べは、長唄などの近世日本文学由来のものではないか。これにキリスト教のモチーフなど西洋的なイメージが乗っかって、恋愛というテーマでシェイクして完成するのが『みだれ髪』であると思う」という指摘に納得させられた。
以下、僕の5首選。
露にさめて瞳(ひとみ)もたぐる野の色よ夢のただちの紫の虹
「露にさめて」「夢のただちの」など、微妙に難しい言い回しがあるのだけれども、「露の冷たさ(?)に目覚めて目を上げて見る野の色よ、それは夢に見ていた情景がただちに現実に現れた紫色の虹である」というような意味。
まだ寝ぼけているような感じが「瞳もたぐる」という言い方にうまく表れている。
「夢のただちの」のように「の」で強引に言葉をつなげていくような韻律が晶子には特徴的なのだけれども、質量を感じるなめらかなこうした韻律が、「野」から「虹」へとだんだん目線を上げていく内容と一致している。
百合にやる天(あめ)の小蝶のみづいろの翅(はね)にしつけの糸をとる神
いま私の目の前の百合の周りを飛んでいる蝶は、天に糸でとめられて飛べなくなっていたのを神が外してくれたのだ、という想像力。これはなかなか出て来ないんじゃないか。
白きちりぬ紅きくづれぬ床(ゆか)の牡丹五山(ざん)の僧の口おそろしき
これはかなり好きな歌。
まず、白い牡丹は散り、紅い牡丹は崩れるものである、という観察の細やかさ。
初句二句の「ぬ」、三句四句の「牡丹」と「五山」が韻を踏んでいて、韻律も美しい。
逸見久美『新みだれ髪全釈』によれば、この「僧の口」というのは禅宗の問答の激しさのことを言っているそうだ。
白と紅の牡丹のイメージが、議論の激しさと類似で並べられている。
しかし、「声」や「論」ではなく「口」がもたらすイメージというのがおそらくあって、赤い口の中のイメージと紅い牡丹が重なっているということもあると思う。
黒瞳子『新派和歌評論』には「此着想は恐らく『閻王の口や牡丹を吐かんとす 蕪村』から来たものではあるまいか」と書いてあるらしく、本当に与謝蕪村の句から取ったのかどうかは定かではないけれども、近いイメージはもたらされているのではないか。
消えむものか歌よむ人の夢とそはそは夢ならむさて消えむものか
やはり思い出すのは、永野陽子『モーツアルトの電話帳』の〈ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり〉。
〈ひまわりの〉の歌、大好きなのだけれども、この時代にすでに先駆があったようだ。
わかき子が髪のしづくの草に凝りて蝶とうまれしここ春の国
〈露にさめて〉〈百合にやる〉然り、僕はこういうメルヘンな歌が好きらしい。
「ここ春の国」という結句がもたらす広がり、読後感が良い。
「青空勉強会」、次回は石川啄木『一握の砂』。
石川啄木は歌人受けしない歌人だと聞いたことがあるけれども、果たしてどうなのだろう。
研究経費(書籍、文房具、機材、映像資料など)のために使わせていただきます。