マスコミとジャーナリズムへの失望
どこかコロナ禍の日常に慣れ、気付けば年が明け2021年。ここに来て、ようやくワクチン摂取についての話がちらほらと聞かれるようになり、楽観こそ出来ないが僅かながら光明を感じられるようになってきた。
まだまだ市井に広く普及するまでには多くの時間を要するだろうし、諸般の問題は相変わらず多く存在する。それでも2020年の混沌とした空気に比べると、幾分か希望の持てる話が出てきたようにも感じる。
しかし、意図したものか否かはわからないが、マスコミによるワクチンの印象操作がここのところ激しい。いずれもワクチンの副作用を謳い、危険である事を大々的に報じている。
事実を切り抜いた情報の断片
2021年1月、朝日新聞系列のAERAがワクチンを忌避する女子高生たちの声を肯定的に取り上げ、加えて中吊り広告にはワクチンの危険性を煽るフレーズを添えた事により大炎上した。
また、その記事を掲載した毎日新聞も同じく炎上。掲載を取りやめ、間もなく謝罪する結果となった。しかしその毎日新聞も、相変わらずワクチンへの不安を煽る記事を発信し続けている。
勿論、マスコミの言う副作用の危険性にも一理はある。100%安全で副作用のないワクチンが存在しないのも事実であり、副作用の具体的な症状を公に知らしめ、理解を浸透させる事はそう間違っている事でもない。
ワクチンによる副作用は事実として存在するし、それに苦しむ人も残念ながら出てきている。捏造して不安を煽る事は言語道断だが、これら事実を報じることは、マスコミの役割としては間違っていはいない。
また人間どうしても、時間をかけて作った物こそ安全で良いものである…という認識を持ちやすい。何より日本人は、何においてもゼロリスクを求め、大小関係なくリスクを毛嫌いする傾向にある。今回のように早急な普及を目指すワクチンに不安を感じてしまうのもわからなくはない。
しかし、ワクチンによる副作用が起きる確率は、そう高くはない。アメリカで普及が進むモデルナ社製のコロナワクチンについては、重いアレルギー反応が起きたのは400万人のうちの僅か10名。しかもその大半は自然回復しており、死者は1人も出ていない。
勿論絶対的に安全と言うわけではないが、ワクチンを摂取するメリットと天秤にかけると、その有効性は大きく揺らぐものでははない。むしろ摂取しない事のデメリットのほうが遥かに多いといえる。
しかしマスコミは、この事を報じない。無論捏造を情報源とした報道ではないが、ただ副作用がある事実と、それに苦しむ人が存在する事実を断片として伝えるだけである。これでは市井がワクチン忌避に傾いてしまうのも無理のない話である。
ワクチンの忌避を招いた前科
こういったマスコミの誘導は、何も今に始まった話ではない。
というのもバブルの時代、日本が科学と金の豊かさを享受していた頃、マスコミはそれに警告を鳴らすために、反科学と精神的豊かさを謳う論評に強く傾倒していた。
それ自体は悪い事ではないのだが、その後の長引く経済低迷と研究分野での衰退を経ても、未だその論調を維持し続けている。その代表例の1つがワクチン忌避である。
2013年、子宮頸がんに苦しむ人々のために、HPVワクチンが開発され、日本でも定期摂取が始まった時期があった。しかしその定期摂取は数カ月足らずで中止となってしまった。無論中止判断を行ったのは政府であるが、その背景にはマスコミによる過剰な副作用への広報と、副作用の恐怖を浸透させた偏向報道があった。
その後、あまりにもHPVワクチンの摂取量が少ないことに国連から日本が名指しで批判される。が、今度はマスコミは「HPVワクチンが普及しないのは、政府が無能だからだ」「確かに私達は副作用を過剰に取り上げた。でも、なぜ政府はそれに対して毅然と押し通さなかったのか」と、まるで他人事のように反権力として利用していた。
彼等にとっては、防疫による人の命よりも、自らの営利と反権力のほうが大事で仕方がないのだろう。
勿論マスコミは「私達が記事を書くとき、儲けは気にしていない」「反権力は我々の役割だけど、人の命に勝るものはない」と言い訳を繰り返す。そして形ばかりの再発防止策と「批判と向き合う」姿勢を繰り返すが、科学と豊かさの欠陥を見つける度に嬉々としているマスコミの姿を見ると、申し訳無いがそうには思えない。
それどころか「私達は必死にマスメディアとしての役割を果たしているのに、理解されない」「マスコミ批判は、百害あって一利なし」と、まるで自分達は被害者かのような論調も目立つ。
これでは、マスゴミと揶揄されても仕方がない。
マスコミの役割とは
マスコミの役割とは、という問に対して「反権力だ」「権力の監視だ」と声高らかに話すジャーナリストはとても多い。確かに、それはマスコミの重要な役割である。しかし、それだけに傾倒してる事には大きな不安を覚える。
残念ながら、ワクチンには常に副作用の可能性があり、それを無くすことは難しい。ただ過去人類を脅かしていた数々の病災に対して、大きな力となってきたのも事実である。
コロナ禍からの脱出は多くの人が望むものであるにも関わらず、市井がワクチン忌避に偏っているのならば、その誤解を解くこともまた、マスコミの大きな役割とも思える。ましてや、その土壌を築いた原因がマスコミにあるのならば、自らが率先して襟を正し、世間の認識を変えていくことが筋であろう。
2011年の東日本大震災以降、マスコミは「寄り添う」という言葉を多く使うようになってきた。果たして、その「寄り添う」とは、市井からの批判を交わすための単なる看板なのか、それとも本心なのか。本心ならば、マスコミ自身によりワクチン忌避に偏ってしまった市井にどう寄り添うべきなのか…マスコミに求められているのは、そういった真摯な姿勢なのかもしれない。
しかし、個人的には、もはやマスコミに期待するものはあまりない…というのが本音である。
自浄作用の低いマスコミ
マスコミが愛してやまない反権力という役割にも、もはや限界を感じているのがある。というのも、反権力として厳しく追求するマスコミ自体がもやは権力と化しており、さらには市井と反目することも珍しくなくなってきているからである。
2020年。沖縄タイムスの社員が、コロナ禍で制定された持続化給付金を不正受給し、大きな話題を呼んだ。当該社員は間もなく懲戒解雇となり、社長が謝罪するという事態にまで発展した。
が、その後の対応に多くの非難が集まった。沖縄タイムスは、ネット記事において、当該社員の匿名を貫いた。政治家や企業のお偉いさん、遺族が「出さないでほしい」と悲痛に求めた被害者の名前すら実名で公開するマスコミが、自身の社員を庇ったのである。
「一度ネットに載ってしまうと、取り除くことは難しい。その後の人生に影響してしまう可能性がある」
と言うのが匿名報道の理由だが、つまりこれまでのマスコミが実名で報道した人は、ネットで未来永劫晒され続け、その後の人生に暗い陰を落としても問題ない、ということなのだろう。
形こそ「批判とお叱りの声に真摯に対応します」としているが、喉元過ぎれば何とやらでその後も身内に甘い所業を繰り返す事は想像に容易い。雲仙普賢岳やHPVワクチンでの所業を改めない彼等は、自らが批判する権力や政治家と何ら変わらない鏡像になっているのである。
何よりも、そういった判断に対して他社が批判も何もしないという異様な姿勢がある。「私達の役割は権力を批判すること。同業他社なんかどうでも良い」というのが本音なのだろう。
結局のところ、自浄作用は会社単位、他社のことなど関係ない…となれば、その自浄作用も極めて限定的である。そんな彼等が反権力を錦の御旗に掲げても、市井が何らシンパシーを感じなくなることは無理もないだろう。
反権力を掲げる自分たちが新たな権力になっており、しかもそれが腐敗してるとなれば、最早その役割に期待できなくとも無理はない。
コロナ禍の収束を
ここ一年、親しい友人たちとの会食も気軽に出来なくなり、加えて居酒屋やレストランで談笑する事も憚れる空気になり、より一層の閉塞感にある。
コロナワクチンの普及、という光明のある話は見えてきているが、副作用の懸念必ずつきまとう。私達はマスコミの煽る副作用ばかりをリスクとして捉えず、少なからず免疫を得られる事のメリットも踏まえて、しっかりと考え選択していく必要がある。
そしてコロナ前に当たり前のように享受していた日々の獲得と、コロナ禍で見えた新たな生活のメリットを踏まえた新たな価値観を享受することを強く願いたいところだ。
ただひたすらに、このコロナ禍が収束することを望みたい。その後の世の中に、マスコミの居場所と意義があるかは、重要ではない。