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笑って老年 自転車通勤 13km [体験記]

県境こえて通勤 週3日、片道13km
のんびり、ゆったり 心の休日
背中のバッグにラジコンミニヨット
競わず、急がず、自転車散歩
 

自転車通勤


 
私は横浜市のほぼ中央部、旭区の二俣川という所に住んでおり、職場の学校は東京の町田で、週三日、自転車通勤している。
職場まで最初は色々なルートを走ってみたが、しばらくすると最短コースが決まってくる。
地図で確認すると、ほぼ十三~十四キロメートルで、普通に走って約一時間十五分で行ける。
雨の日は相鉄、小田急を乗りついで、四十五分ほどで着く。
 
自宅を出ると団地のある住宅街を通り、両側が畑の小さな丘を越える。
細い裏道をこちょこちょ過ぎて、都岡の交差点という所に出てくる。ここからは国道十六号となり、ほとんど人のいない広い歩道を走って行く。
上川井をすぎ、ゆるいアップダウンを越え、東名をすぎると、グランベリーモールの前にくる。
グランベリーモールというのは大規模なきれいなショッピングモールで、帰りにここでワンカップ一杯していくことがある。
このさき、公園の林道を降りて行くと、我が愛する境川にぶつかる。
境川は神奈川県と東京都の県境を流れる河で、ほぼ河の全域にわたってサイクリングロードができている。
ここからは気持ちがいい。
いつもそうだがここまでくると、ほっとする。
あと二十分ちょっとだ。
車も排気ガスもなく、あるのは犬を連れて散歩している人や、ジョギングしている人、ゆったりと流れている河の水・・・
「すべて世は、こともなし」の世界である。
土手のまわりの住宅の木々や花々をながめながらの走行はとても楽しい。
四季おりおりの変化がある。
春三月の終わりの今頃、白い大きな花が咲いている。こぶし、白木蓮などだ。
黄色い花はなんだろう、れんぎょうか。
足元では水仙がかわいらしい。
日当たりのいい対岸では気の早い桜がもう花ざかりだ。
一眼レフにでっかいレンズを付けたオヤジ達が、河原のセキレイを狙っている。
大きな鯉がゆったりと群れている。
通勤中はほとんど音楽を聴いている。
古い2GBのiPodにクラシックとロシア民謡、ハワイアンなどを詰め込み、気の向くままに好きな曲を聴いている。
もっともその後、走行中の音楽は禁止になってしまったが。
日差しの暖かいこの土手を走る今日は、交響曲第六番「田園」がぴったりだ。
どこまでもこの堤を走っていたいと思う。
横浜から自転車で通っているというと、驚く人が多いが、実際走ってみると全然つらくないのだ。
つらいどころか楽しくてたまらない。
自転車を乗り回していると、電車やバスに乗るのがばからしくなってくる。
一駅や二駅なんてあっという間に行けちゃうのだから・・・・
もうルートは決まっているからなにも考えていない。
まもなく町田市街が見えてくる。
ここで境川とお別れで、町田駅前を通りぬけ、目指す学校に到着する。
 
帰路、南町田駅前のグランベリーモールで休憩する。
さきほど紹介した、大きなきれいなショッピングモールである。
駅前が広い広場になっていて、敷石が敷きつめられ、幾何学的な美しい模様をつくっている。
広場のはじに枝ぶりのいい桂の樹が植えられ、そのまわりを丸く木のベンチが囲んでいる。
私の定位置である。
クルマのない空間なので、人々は思い思いの速度で歩き、立ち止り、おしゃべりしている。
犬を連れた人、買い物バッグを抱えた人、若い娘、子連れの家族、鳩を追いかけてかけずりまわる子供たち・・・・
クルマのいない空間というのはなにかほっとする。
気を安らげる空気があって、自然に人々があつまってくる。
このベンチに座って、軽く一杯やりながら、通り過ぎる人々をぼんやり眺めて過ごすのが、私のひとときのすごしかたである。
 
その後、グランベリーモールは、いったん更地に戻され、新しいグランベールモールに生まれ変わった。
すてきな新モールになったが、以前の広場は変わってしまい、少々さびしく思っている。
 

自転車を買った日


 
自転車は欠かせない道具となっている。
というより楽しみの道具である。
自転車に乗っていると幸福感を感じるのである。
外出の必需品は音楽プレーヤー。
どこへ行くにも自転車で行く。
電車、車、バスは利用しない。
いつ頃からこのような自転車生活になったのか思い出してみると、五年前にはもう自転車通勤していたので、このころからのようだ。
どうして自転車生活にシフトしたのか。
車の排出する二酸化炭素問題、環境問題、エコロジー対策を考えて実行した、といえば模範的な市民だが、全然そんなことは考えてもいなかった。
多分新車を買っておもしろ半分乗りまわしているうち、境川ルートを知って職場まで行ってしまい、それがきっかけで通勤するようになったのかもしれない。
 
その自転車を買った日のことはよく覚えている。
相鉄沿線二俣川の私の家から、5駅先の星川の大きなホームセンターまで、国道をてくてく歩いて行った。
初夏のよく晴れた日だった。
考えてみると、長距離歩くのが好きで、結構遠くまであちこち遠征していた。
そして徒歩の限界を感じ、行動半径を広げるために自転車に移行したのかもしれなかった。
それは、タイヤの小さな折りたたみ自転車だった。
以前下見に来た時、「これにしよう!」と決めていた自転車で、銀色のフレーム構成がシャープで美しく、すらりとした小鹿のようだった。
無駄のない機能的なデザインに魅了され、即購入した。
ちなみにお値段は一万円で少しお釣りがくる価格だった。
鍵やかご、ライトなどを入れてもトータル一万数千円である。
あとになって、自転車の性能は重さに反比例していることを知った。価格も同様である。
高性能な自転車ほど軽く、高価なのである。
しかしこの自転車は、大衆価格のわりには軽かった。
 
帰りは早速この自転車に乗って家に帰った。
はるばる歩いてきた道を、すいすい走って帰る。
ひさしぶりの自転車に楽しさがこみあげてきた。
翌日、わたしは境川のサイクリングロードを走っていた。
この道は昔、走った記憶があった。
まだ小さかった息子をママチャリのうしろの荷台に乗せ、いちょう団地の前を通ったことがあったのである。
藤沢まであと数キロという、見晴らしの良い開けたところで休憩し、Uターンした。
帰路、性能のよさそうな細身のロードバイクに乗った初老の男性が話しかけてきた。
江ノ島まで行ってシラス丼を食べ、これから町田まで戻るところ、ということだった。
私はそのとき、この境川をどんどん下っていけば江ノ島に行けることを初めて知った。
また、この境川を上っていけば、東京の町田にいけることもわかった。
こうしてこの境川サイクリングロードが、通勤ルートのメインロードとなったのである。
 

最先端の架橋工事


 
通勤途中の国道十六号で今、立体化工事というのが進行中なのだが、これがとても面白い。
最先端の架橋技術なのだろうが、あらかじめ点々と橋脚を作っておく。
次に、その橋脚に橋となる短い道路構造物を取り付け、少しずつつなぎ足しながら延長していくのだ。
こちらの橋脚から伸びた構造物と、むこうの橋脚から伸びた構造物がドッキングすると、リベットで固定され、下の足場も外される。
こうして二つの橋脚に橋が架かったわけである。
 
 
すべての橋脚が、このようにして橋を架けられていく。
くねった形を遠くから見ると、巨大な未完のメカ恐竜のようである。
毎日通るたんびに少しずつ伸びている。
橋脚も橋脚の間の道路構造物もすべて鋼板でできている。コンクリートは使っていない。
次々にリベットでつないでいく。
左右両端が接近した時、おかしなことに気がついた。
両端の結合部がどちらもちょっと足りないのだ。三十~四十センチメートルくらいとどかない。
両端を結合する補強の鋼板が困ったように片側の端部に仮止めされていた。
設計ミス?
施工ミス?
寸法誤差?
そんなことはありえない。
この空中高く建造されている長大な橋の両端を強引に引っ張って取り付ける? 
それもありえない。
ではどうするんだろう?
それは今後のお楽しみである。
現代の土木工学の実際を、ただで見学できる架橋ショーは、まだしばらく続く。
 
自転車通勤は楽しいのだが、困ることもある。
それは雨である。
朝から雨が降っているときは電車で行くので別に問題ない。
問題は朝、雨が降っていなかったのに、帰りに降り出してきた場合である。
帰路、少し走ったあたりで、ぽつぽつ降り出してきたことがあった。なにがいやといって、自転車で雨に降られることほど、いやなものはない。
たちまち本降りになってきた。
前傾姿勢で漕いでいるので雨水が下腹部に集中して流れてくる。
そのうち腹が冷えてきて下痢の徴候がきざしてきた。
「まずい、出そうだ」
こうなると必死である。
青くなってぐっと我慢しながら用を足せる場所を探す。
ちょうど広々と畑が続く場所にさしかかっていた。畑の外れに雑木林が見える。
「あそこだ」
夢中で雑木林に突進し、自転車をほっぽりだして、林の中に駆け込んだ。間一髪で最悪の事態は避けられた。
 
また汗も困ったもののひとつである。
真夏、七、八月ごろ、職場に到着すると全身汗みどろとなる。
シャツはびっしょり、パンツもびっしょり、おまけにぷんぷん汗臭い。走行中の汗はすべてサドルをめざして流れ落ちてくるので、股間部がびっしょりになってしまう。
まずいのはズボンの尻にあたる部分に縦の染みができてしまうのである。 
まるでおもらししてしまったように見える。
こんな格好でとても授業なんてできない。
色々対策を試行錯誤した結果、現行の方式にたどりついた。
百均で汗取りパッドというのを売っている。
女性が脇の下などの汗を吸い取るために下着の内側にこれを貼っておくのである。
ビニール袋に八枚入りで売られている。
この汗取りパッドをパンツの内側股間部に貼っておく。
そして職場についたらトイレの中で、パンツ、シャツを着替えるのである。
こうすると、おもらしマークも付かず、さっぱりしてその日の授業に専念できるのであった。
困ったものの三番目はおしっこ問題である。
この歳になると、おしっこの我慢ができなくなる。
「でそう」、となるともう我慢ができない。
かってにじゃかじゃか出てきてしまうのである。こればっかしは若い時とは違うのである。
そこで通勤ルートの要所要所にあらかじめトイレの場所を確認してある。
通常の場合のトイレ、緊急時の応急対策トイレ。
老年には老年の苦労があるのだ。
 

楽しい自転車生活


 
通勤以外にも自転車でどこへでも行く。
自転車好菌に感染してしまったようで、もうこうなったらどこだって行けちゃう、という確固たる過信が確立してしまったのである。
現在までの私の踏破版図は、東は青山、表参道あたり、西は伊勢原、秦野、渋沢、平塚、茅ケ崎、大磯。
南は江ノ島、横須賀、三崎漁港など。
北がまだあまり未踏破で新百合ヶ丘あたりまでである。
一泊すれば行動範囲はがらりと広がる。
西は小田原、箱根、湯河原あたりまで行けるし、東は久里浜からフェリーで浜金谷に渡り、房総を走ってくることもできると思う。
そのうちチャレンジしてみたい。
おもしろいもので、一度でも行った所は被征服地となり既知の場所となる。
次回からは気楽にいくことができるようになってしまう。
 
昔、電車にのって、ずいぶん遠くへ来たと思っていたような所へ、自転車で行ってみると、不思議な感覚におそわれる。
先日鎌倉へいったときがそうだった。
私は二俣川の自宅から、鎌倉にある学校に通っていた。中学、高校の六年間通った。
当時、相鉄線で二俣川から横浜にいく。
ここから国鉄(現在はJR) 横須賀線で北鎌倉まで行き、徒歩で建長寺前の学校に行くのであった。
相鉄線だけで二俣川から横浜まで途中8駅あり、国鉄も4駅はさんでいる。
自宅から北鎌倉までははるか遠い距離にあり、自転車でいけるなどということは、当時考えもしなかったことなのであった。
鎌倉へ行く途中立ち寄った北鎌倉の駅は、当時とあまり変わっていなかった。
小さい駅舎、左手のトイレ、正面の改札、ホームへ上がって行く石段。
なつかしい。
しばし五十年以上前の学生時代に思いをはせた。
あのころ電車通学していた北鎌倉へ、自転車で来てしまった。
「ほんとにここがあの時の北鎌倉駅なのだろうか?」と、
あらためてあたりをながめまわした。
 
以前、小田原での会合の帰り、すっかり酔っぱらって電車に乗り、気がついたら小田急江ノ島線鵠沼海岸の駅で降りていた。
もう終電で、駅のライトが消え、私は駅前に取り残された。
お土産にもらったお酒の紙袋は消えていた。
私はてくてく歩きだした。
酔っているから現実感があまりない。
ガンダムを操っている操縦士のように内部から手足に命令をだし、歩かせているような感覚だった。
深夜の国道をてくてく歩いて行く。
メインの国道を歩いていればおおまかには帰る方向に向かう。
原宿からいずみ野を目指し、ひたすら歩きつづけた。
二俣川モータースという看板を見つけたときは、うれしかった。
地元の名前がでてきたのである。
家にたどりついたのは明け方だった。
私は江ノ島から二俣川まで歩いてしまったのだ。
 
こんなにも乗りまわしている自転車は、タイヤ径二十インチという小型の自転車で、軽くとり扱いやすい。
目いっぱいハンドルを下げ、目いっぱいサドルを高く上げて使っている。
ちなみに今乗っている自転車は二代目である。
初代は飲酒運転で転んだとき壊してしまった。
変速ギャー関係のパーツをこわしてしまったのである。
二代目は初代と全く同じ機種、同じデザインで色違いである。
この自転車ひとすじなのである。
低価格にもかかわらず、小鹿のようにスリムな肢体で尽くしてくれるとてもいい子なのである。
惚れているから目移りしないのである。
 
ポタリングという言葉がある。
英語のPOTTERからきた言葉のようで、ぶらぶら散歩するようなサイクリングのことである。
私にこのことばがぴったりである。
そんなにがんがん飛ばさない。
自転車もがんがん用ではないから、まあ車などの通らない平坦なサイクリングロードなどを、のんびりとろとろ走る。
ポタリングは地図なしでさまようのも面白い。
道路標識や地番標識から自分の位置、方向を確認するのは当然だが、それ以外に遠くの山、目立つ建物、鉄道、川など、あらゆる情報から頭の中に地図を描き推測するのである。
この場合は、大まかに目的地に向かっていればよい。
とんでもない逆方向に向かってさえいなければ、なんとかなるものなのだ。
五感、第六感が冴えてくる感じが楽しい。

以前、目的もなくぶらぶら走っていて、気がつくときれいな小川にそった田園風景のなかを走っていたことがあった。
小花咲く道の小さな橋を渡り、緑の林を抜けて行った。
このときの印象が忘れられず、ずっとあとになって、その場所をたずねて探しまわったことがあった。
しかし二度とその場所は見つからなかった。
不思議なものである。
地図をみながらそのあたり色々探し回ったのだが、結局見つからずじまいとなった。
そこは私にとってあこがれのまぼろしの桃源郷となった。
このような場所はまだいくつもある。
昔行ったけどもうどこかわからない場所。
もう一度いってみたいなつかしい場所。
風景も人と人とのめぐり合いのように、一期一会なのであった。
 

あぶない癖


 
私には、だれか女の子を好きになると、その子の家を見てみたくなる癖がある。
一歩間違うと今ではストーカーに近くなってしまうあぶない癖なのだが、その子の生まれ育った故郷、育った家、学校を見てみたい、そこの空気を吸ってみたい・・・・。
これは二十代の若いころから始まった私の性癖だった。
彼女の故郷を知り、そこに行くと、そこは地図上の見知らぬ一地方ではなくなり、甘く切なくなつかしい土地になってしまうのだ。
むこうからやってくる知らない娘に彼女の面影をさぐってしまう。
会津若松、浦佐、左沢などは、今でも胸の痛くなる甘酸っぱい、青春の思い出の土地となっている。
新潟の浦佐に晩秋に行ったことがある。
当時は国鉄の上越線でいった。
十一月の終わりの頃だった。
私の二十代、サラリーマン時代の話である。
同期で入社した女の子たちの一人が浦佐という所から来たのだった。
こちらは大卒、彼女は高卒で入ってきた。
髪の長い、色白の、小柄な娘だった。
新卒が大勢入社してきて、社内誌のような薄い本が発行された。
そのなかに新入社員の作文コーナーのようなものがあり、彼女は「私の故郷」というような作文を載せたのだった。
冬場の雪のこと、最近出来た国道十七号線で便利になったこと、スキー場の話題などを書いていた。
そのスキー場の近くに彼女の実家があるといっていた。
そもそも浦佐などという地名は全く知らなかった。
まだ上越新幹線などなく、当然新幹線の「浦佐駅」などなかったころである。
ここが雪国で、豪雪地帯であるなどということも知らなかった。
しかしどうしても彼女の故郷を見てみたかった。
雪国へ行くことも、しかも冬の季節に行くことも初めての体験だった。
女の子に魅かれて、それが動機で旅をするというのも初めてのことだった。
スキーシーズン直前の、小雪がぱらつく誰もいないスキー場に登った。
眼下に大きく魚野川が流れている。
ずっと向こうに紫色にけぶった八海山が立ちはだかっている。
スキーリフトが寒そうにぶら下がっていた。
スキー場の麓のあたりに小さな村落が見えた。
あのあたりに彼女の家があるのだろうか。
ふりしきる雪の中をとぼとぼ浦佐から隣の五日町まで歩いた。
十一月終わりの頃の雪国浦佐は、どんよりと灰色の空に覆われ、みぞれが降り、人通りもなく、かぎりなくさびしかった。
浦佐行きがきっかけとなって、新潟県でも豪雪地帯として知られるこの近辺が好きになってしまった。
川端康成の「雪国」も影響しているかもしれない。
以後この付近の町や村にちょくちょく遊びにくるようになった。
冬場は電車で、夏場はバイクでやって来た。
そのころホンダのCB500という大型バイクに乗っていて、あちこちツーリングして回っていたのだった。
五日町、六日町、越後湯沢をはじめとして、十日町、飯山、七ヶ巻などなつかしい。
真冬の飯山線も忘れられない。
二月頃だったと思う。長野駅から越後川口駅まで全域乗ったことがあった。
前日長野駅にやってきて駅前旅館に一泊し、早朝おにぎりを作ってもらって宿を出たのである。
たしか車内にストーブがあったような気がする。
地元のおばあさんたちがそのストーブで弁当を温めていた。
電車(ジーゼルカーだったかもしれない)は、千曲川沿いに走っていて、その川岸の雪景色がすばらしかった。
翌年の年末から正月にかけて、この沿線の途中の小さい駅に来て、近くの民宿に何日か泊まったことがあった。
このときは油絵の道具をもってきて、雪景色を描いた思い出がある。
夏場は国道十七号線をバイクをとばしてやってきた。
国境の長いトンネル、清水トンネルを抜けると越後湯沢に着く。
上越線に沿って走り、浦佐で魚野川のほとりに行き昼飯を食べる。ここから六日町に戻り、山を越えて十日町に行った。
夏の飯山線沿いをぐるっと回って帰って来た。
 
山形の山奥、左沢(あてらざわ)というところにも行ったことがある。
髪の長い、すらりと細い、内気な女の子の故郷だった。
彼女も同期入社の一人である。
彼女の卒業した学校に行き住所を聞いた。
このときはずうずうしくも彼女の家でおかあさんにラーメンをごちそうになって帰ってきた。
左沢に行ったのはただこのとき一度だけである。
しかし左沢というと髪の長い内気な彼女の顔を思い出すのであった。
私が特別変わった趣味の持ち主なのかどうか、自分ではわからない。
しかし松尾芭蕉の足跡をたずねて、伊賀上野を散策する、などという文学散歩趣味や、興味のある文化人の生家を訪れるというツアーなどがあるから、人の生まれ育った風土環境に興味関心を抱くのは自然ななりゆきだと思う。
 
ここからは私の教え子たちとなる。
M子は伊勢原の子である。
M子の家は駅前からかなり離れた住宅地の一角にあった。
M子は家を出ているから今ここにはいない。
しかし、手前の角からひょっこり彼女があらわれるような気がしてどきどきする。
私は彼女の家の前をゆっくり走りぬける。
玄関の表札が目に入る。
白い表札の文字・・・・。
なにか不思議な感動につつまれる。ここが彼女が暮らし、遊んだ場所なのだった。
M子の卒業した高校にも行ってみた。
ちょっと古びた校舎が並んでいる。グランドのはずれで学生たちがテニスの練習をしていた。
何年か前、彼女もここでテニスをしていたかもしれない。
自転車で半日かけて、はるばるやって来た見知らぬ土地の見知らぬ風景が、なにか甘くなつかしい故郷に生まれかわる。
 
横浜郊外、長い坂を上りきった所に大きな公園がある。保土ヶ谷公園である。
K子の家はこの公園のはずれの高台から見ることができる。
谷をはさんだ向こうの家並みの中のひとつだ。
白い二階家の屋根とこちらに向いた窓が見える。
彼女の家には一度行ったことがある。
長い間学校に置かれていた彼女の卒制の作品を、車で運んで行ったのだ。
おばあさんが出てきた。大柄なおばあさんだった。
あの窓のなかにいま彼女がいるかもしれない。
窓を開けて外をながめるかもしれない。
思わず、携帯で呼び出したい誘惑にかられてしまう。
このとき、向こうの家並みはただの風景ではなくなる。
忘れがたい甘美な一枚の写真として私の心の中の思い出のアルバムに張りつけられるのである。
 

彼岸花の里


 
丹沢のふもと、伊勢原の北方、日向薬師という古刹のまわりは彼岸花の名所である。
最近、秋になると自転車でここに行くようになった。
家を出て厚木街道を走る。
大和を過ぎ厚木飛行場を左手に見ながらさがみ野駅手前で左折し四十号線に入る。ここは広くて走りやすい。
海老名市内を抜け、広い相模川を渡ると本厚木に着く。
きれいな市内を走り、二四六号線を船子橋で右折し六○三号線に入ると、広々とした緑の田園風景になり気分もくつろぐ。
ここまでくると自動車がぱったりと少なくなり、巾広い直線道路が快適である。
玉川という小さな河の土手を走って行く。
山が迫ってきて、田舎にきたのを実感する。
空気がおいしい。
奥の山すそに、廃校のようにみえるのは玉川公民館だ。
左折し坂を上って行くとまもなく「日向薬師入口」という小さな案内板が見つかる。
このあたりからは狭い農道で坂をのぼっていく。
左手に谷川があらわれ、この河ぞいにくねくね道は続く。
この河は日向川で、ここから先、折れ曲がった農道の左右から山里の家々がつぎつぎにあらわれる。
庭先の花々が美しい。
ひょっとカーブを曲がると、大きなカンナやダリアの花がとびだし、足元で秋の小花が咲き乱れている。
このような風景がつぎつぎあらわれて、まるで桃源郷に誘いこまれていくような気分になる。
コンクリートの小さい斜めの橋を渡ると、あちこち川のまわりに彼岸花が見えて来る。
ここからは彼岸花の里なのだ。
進むにしたがって彼岸花はどんどん増えてくる。
さらに進むと、あたり一面たんぼのまわりはぐるりと彼岸花にかこまれ、真っかっかになっている。みごとである。
大勢見物客がきている。
おじさん、おばさんが多い。
おじさんたちは一眼レフに大きなレンズをつけ、三脚をかかえ、彼岸花の撮影に忙しい。
自転車を道路わきにとめ、あぜ道に入っていく。
やわらかい土の感触が心地よい。田んぼの起伏が楽しい。
日向川にそってぐるりと一周した。
道端にすわって昼食にする。
こういうときはおにぎりがおいしい。
しばらくここで休憩することにした。
あぜ道にはずっとロープが張られ、見物客はそのロープに沿って歩いている。
まわりはぐるりと山に囲まれ、山裾のあたりにもあちこち彼岸花が点在している。
一時間ほど彼岸花の里で休憩した。
時計をみると午後まだたっぷり時間がある。
伊勢原に出て少し大回りになるが南下して、大磯まで行ってみることにした。
あとは海岸ぞいに走って江ノ島までいけばいつもの道になる。
帰りはゆるい下り坂が延々と続き、自転車には快適なひとときである。
伊勢原に出た。
左手遠方に伊勢原駅のあたりがみえる。
ここから国道六十三号線に入る。
しばらく走るともう平塚市に入ったようだった。
広々とした風景である。丹沢の山並みを背景にして一面に畑が広がっている。
坦々と続く平らな道を走り続け、新幹線をくぐり、しばらく行くと大磯ロングビーチの前に出た。大磯に来たのだ。
ここからは海岸ぞいに海を見ながら帰路になる。
アップダウンがないから走りやすい。
平塚、茅ケ崎、辻堂と走って行く。
遠くに小さく見えていた江ノ島が随分大きくなってきた。もうあの長い橋もわかるようになった。
江ノ島でジュースを飲んで一息つくと、いつもの道で帰途についた。
 

自転車がない!


 
たまには悪夢のように驚いた出来事もある。
秦野の弘法山に行ったときのことだった。
国道二四六をひた走って鶴巻温泉まで行き、駅前の電話ボックスの脇に自転車を停めて、そこから歩いて弘法山に行った。
ここは手軽に歩けるハイキングコースで、最初ちょっと坂道がきついが、あとは林の中のアップダウンで気楽に歩ける。
以前M子と二人できた思い出の道である。
山を一回りして鶴巻温泉の駅前に戻って驚いた。
私の自転車がない! 
さっき停めた場所にはなにもない!
盗まれたのか?
目をこらして思い出してみる。
たしか鍵はしたように思う。
でも小さくて軽い自転車だから、そのまま抱えてもっていってしまったら、それっきりだ。
「くそー、やられたか」
めらめらと怒りがこみ上げてくる。
山歩きに疲れて、あとはのんびり自転車で帰るつもりが、とんでもないことになった。
しばし呆然として状況を考える。
ひょっとしてどこか近くに誰かが移動したかもしれないと、はかない希望をいだいてうろうろ周りを探してみた。
駅の反対側の外れに駐輪場があった。
そこのおじさんに事情を話してみた。
すると少し前、市の自転車回収車がやってきて、不法駐輪車を集めていったという。
それに持って行かれたのかもしれない。
事情がつかめないというのは非常に不愉快なものだ。
しかししかたがない。
帰る足を無くした私はそこから電車に乗って帰った。
二、三日あと、電車に乗って秦野市役所に行った。
担当の課にいって話してみると、回収自転車は渋沢の回収施設に集められているという。
係のひとがそこに電話してくれた。
日時、場所に該当する自転車があるということがわかった。
しかし今日は施設は開いていないので、今週末金曜日に行くようにいわれた。
金曜日、小雨降る冷たい日、また電車に乗って渋沢の施設に行った。
そこに私の自転車があった。
「まだ新しい自転車だねえ、見つかってよかったね」
なんていわれて自転車を引き取った。そのとき、うん千円取られてしまった。
自転車は返ってきたがあいにく小雨が降っている。
しかたなく駅前の駐輪場に預けて電車で帰った。
翌日は晴天だった。
渋沢までまた電車で行き、そこから自転車で帰った。
そんなわけで今のところ、西方最遠踏破場所が渋沢なのである。
渋沢までいけば新松田、小田原も近い。
くそいまいましい渋沢記録を早く更新したい。
 
鶴巻温泉の一件ではないが、駅周辺での駐輪取り締まりが最近非常に厳しくなった。
駐輪監視員というのか青い制服を着て腕に腕章をつけた人たちが、歩道の要所要所に立っている。
何が何でも絶対駐輪させないぞという、行政側の強い決意を見せつけられているようだ。
たしかに場所によってはおびただしい自転車が駐輪していたことがあった。
置き捨て状態の自転車も中にはある。
このような状態はたしかに見苦しいし通行の邪魔になる。
ヨーロッパの都市などでは、市内中央部への車の進入を規制し、逆に自転車の駐輪施設を充実させ、人に優しい、人の安らげる空間を設けている所があるそうである。
国道二四六号は歩道が巾広く設けられ、歩きやすく走り易い。
しかし多くの他の道路の歩道は悲惨な状態のものが多い。
細い歩道の真ん中ににょっきり電柱が生え、歩くのにも走るのにも迷惑することがある。
また逗子のほうの海岸沿いの道路では、走って行くとトンネルになり、トンネルの入り口で歩道がなくなってしまうという場所があった。自転車で歩道を走ってきたのだが、ここからはトンネルに入らなくてはならない。
しかしトンネルは狭く、車がびゅんびゅん走っていて、怖くて走れない。結局引き返して回り道して帰った。
日本もそろそろ車最優先社会から人優先社会に方向転換してほしいと思う今日このごろであった。
 
自転車に乗っていて困るものの定番といえばパンクである。
何年も乗っているから何回かパンクの被害にあっている。
日向薬師からの帰り道パンクした時は困った。
丹沢の麓、山里から伊勢原市街まで距離は長いがほとんどゆるい下り坂で快適なコースだった。
その途中でパンクしてしまったのである。
後輪がぺたんこになっている。
歩いてひきづって行く。
チューブが傷まないように、後輪を軽く引き上げながら歩くのは疲れる。
応急パンク修理セットというのが売られているのだが、めったにパンクなんかしないので用意していない。
昔は自分でパンクなんか直していた。
ドライバーをリムに差し込み、ぐるりと回すとタイヤが外せる。
チューブを水に漬けてあぶくを出させ、穴のまわりを紙やすりで荒らしてから接着剤を塗る。
しばらく乾かしてからゴム片を張り付けて、とんかちでたたいて圧着すればいいのである。
自宅だったら自分で直してしまうのに・・・
自転車屋を見つけるしかない。
とりあえず伊勢原市街めざして歩いた。
自転車で走れば快適な長い下り坂コースをひたすら歩く。
ところがこの間の距離が長いのである。
やっと国道二四六に出た。
広い歩道をてくてく歩いて伊勢原駅方面に向かった。
駅近く、広い交差点の向かいに自転車屋があった。
ほっとした。
くたくたになっていた。
途中ラーメンを食べて帰った。


この笑って老年シリーズは全8篇あります。
ご興味ありましたら、他の篇もどうぞ。

1       笑って老年 不良講師お花見デート作戦
2       笑って老年 老ガンダム 年甲斐なき教師
3       笑って老年 自転車通勤13km
4       笑って老年 模型工作少年 鉄道・飛行機・ラジオからラジコンヨットまで
5       笑って老年 猫とリスの島 娘たちと江の島へ
6       笑って老年 唐突にパソコン・パソコン講師 Web制作も
7       笑って老年 iPod音楽生活 クラシック 好きな曲・作曲家
8       笑って老年 盗読 乱読 随筆 小説 児童文学 絵本出版

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