自分を変える必要があるのか

あまり余計なことを考えない方が、楽しく暮らしていけると思う。

考えないことで、結果的に大変な目にあったとしても、それすらも笑い飛ばしてしまったり、ひたすらに前向きに生きていけたら

明るい人生を過ごせると思う。


考える時間は、沈黙を生む。

よく考えてしゃべる人は、言葉を選んでたくさんのことばを必要としないのかもしれない。

偏見かもしれないけど、あまり考えない人の方がよくしゃべると思う。

良くしゃべる人は、明るい印象を持たれやすいと思う。


今までは、よくしゃべってクラスの中心にいる時期もあった。楽しいことばかりで毎日笑っているようなこともあった。

そんな時期と今何が違うのか。

わたしは、考えることを自分に課したんだと思う。

よく考えない行動や発言を改めて、いったん時間を置く、冷静になる、よく考えて、

人を傷つけたり、軽はずみの行動で後悔したりしないようにするためだと思う。


わたしは無意識に自分を否定しているんだと思う。

本来の自分がどっちなのか今はもう分からなくなってしまうくらい、考えることも板について、こうやって考えながら書いたり人と話したりするのも楽しいと思う。

でもどこかで、よく考えていないけど楽しむことに貪欲でなにかあってもけらけらと笑っていた自分をうらやましいと思う。

きっかけは、友達が疎遠になっていったことだと思う。結婚や出産も重なって、今までの自分ではだめだという印象が強かった。この状況をよくするために、自分を変える必要があったり、そうしないとこれからやっていけないと思った。

人のことを傷つけてはいけない、ということがわかっているようでわかっていない。無意識にその場のノリで傷つけたり、仲間外れにしていたり、よく考えてないから迷惑をかけることもあったと思う。

そういう結果で、結婚するまでよく会っていた友達と距離ができていったんだと思う。連絡をしても返ってこないとか、返事が極端に冷たいとか、自分のしてきたことを謝ったこともあったと思う。逆に、感謝の気持ちを伝えたこともあった。今思うと、そういうところが気持ち悪かったのかもしれない。

田舎の学校だったから、クラスメイトも少なく腐れ縁みたいにずっとつながっていただけの友達だったかもしれないけど、それでもつらいときに連絡をしたり、寂しい時にでかけたりそういうのに救われたことが多かったから、どこまで友達として心を通わせられていたのかは分からないけど、こういう自分と仲良くしてくれる数少ない友達としてもっと大切にしたかったと思う。

その上に、結婚した旦那からは、自己中、わがままの避難の嵐だった。今でこそお互いの欠点を認めて話し合いをするようになったけど、最初は足元をすくうようなことばかりで、心を許してはいけないという緊張感もあった。いまでもまだ完全に信用しきれていないけど、そういう結婚を選んだのは自分だという認識も持っている。

この数年が、自分にとって試練やふりかえりの年だったのかもしれない。

そこまでして、今までの自分を否定して変える必要がなかったとしても、自分の欠点を見つめたり人との接し方を見直すという意味では、このタイミングで一度考える必要があったのかもしれない。

何も考えずにただ過ぎていくだけの、それでも気にせずにポジティブに過ごしていたとしても同じ分だけの時間は流れていたかもしれないが、

こうやって経験した思いはまた、どこかで誰かの力になれるときが来るかもしれない。

こないかもしれないけど。



今、こうやって書いていて気付くのは、やっぱり過去の人付き合いの失敗がどうであれ自分を根こそぎ変えようとする必要はなかったんだと思う。

決してできた人間じゃないし、バランスがとれていないちぐはぐなところばかりで、ださくて、どんくさいかもしれない。

それでも、失敗したことをけらけらと笑って、ネタにして生きていく生き方は間違っていないと思う。

それを否定する人がいて、陰で言う人もいる。

変な人だ、あほだ、一緒にいて迷惑ばかりだ、と離れていく人もいるかもしれない。

わたしはそういう人に嫌われないように、無理して自分を変えたり、好かれる努力をすることよりも、

どうやったらうまくやっていけるかを考える事よりも

隠してうまくやろうとすることよりも

人と比べて大丈夫かどうかを確認するよりも


自分はこういう人間です。それでも仲良くしてください。

無理なら、いいです。

って開き直る方がいいかもしれない。


私は、自分を生きている感覚がないと思う。

いつも誰かのように、身の回りの人のまねをして、あまり自分の感覚を自分で信じて動いたり、自分の選んだものを心の支えにしたことがないと思う。

自分の内側は、からっぽでさみしくて

それっぽいもので埋めようとするけど、自分で自分を満たしたことがないと思う。

いつも、誰かや何かを外側に求めていて、

自分の積み重ねたものや経験を味わったことがないと思う。

よくわかんないけど。


感情がいつも外からの刺激に左右されていて、自分の中の動かないものがないというのか。


中身が埋まらなくても、とりあえずしなければいけないこと世間がしておいた方がいいということ

人が見てくれそうなところはちゃんとしていたいと思っていた。


自分が良ければ、人がどういおうがという感覚がわからないから、いつも外からの評価に左右されているのかもしれない。

わたしは自分を持っているようで持っていない。


自分を持っているように見せているけど、中身はからっぽだ。

自分が信じれるものを自分で手にしたことがないから、ふわふわと誰かや何かを探しているような気がする。



1人で旅に出たい。

一度、沖縄に一人で旅行したみたいに

自分しか感じられないような感覚で過ごしたらいいと思う。


あまりにも、まわりや何かに縛られていると思う。


自分の世界を生きているようで全然生きていない。

これは、誰かが良いとしてくれるのを期待した誰かの人生だ。



月曜日の朝、週の始まりに世間がぴりぴりと忙しくなるなかで、わたしもそうでなければいけないと思う。

こうやって自分の時間を好きに使うことに罪悪感を覚えながら、時間を持て余してる。


自分の感覚を磨くこと。

これはいい、これはいやだ、こうした方がいい、これはしなくていい。

ひとつひとつが、世間に従う必要があることなのかは分からない。

それをまた一個ずつ掘り下げて考えることで、わたしは根暗な口数の少ない考える人になるのかもしれない。

ほんとは、いちいち考えるのをやめたい。

感覚で生きていきたい。

それじゃダメなこともあるんだろうけど、そんなこともよく考えずに受け流してへらへらなるようにやっていけたらいい。

結果的にうまくいけばラッキーでうまくいかなかったら、落ち込むんだろうけど。


それじゃだめかもしれないけど、そうとしか生きられないのかもしれない。

そうやって自分を甘やかす生き方しかできないのかもしれない。

それができない自分がダメなんて、つらすぎる。


これは、自分に対する大きな許しであり、大きな落胆でもある。

自分に対する評価が、まだやれるもっとやれる、やろうと思えばやれる、から

やろうとしなくていい、やれないことはあきらめる、何とかしようと思わない、というあきらめになる。


人にこう見られたくない、

こういう人になりたくない、こういう失敗はしたくない

という思いからの、そうならないための努力が多すぎる。気を付ける事、意識すること、考えることが多すぎる。


人に言われるのがいやだから、そうならないように

そういう風に見られないように、

すこし気を張ることで、自分をうっすら奮い立たせてる。


それも日々の小さいストレスとなって、自分を生きにくくしていると思う。

その緊張の糸を切ったとき、

わたしがどんなずぼらで、くさった、ひんまがった、いい加減な人間になるのか怖い。

そういう自分を受け入れられないから、

わたしは、そういう自分を否定しながら

気を付けながら、自分を正しながら生きていくのか。


この際小さいことはどうでもいい。

いちいち考えてもしょうがないこと、結果的に表面に出ないこともあるだから掘り下げまくったところで、忘れてまた同じことだって繰り返すかもしれない。

わたしは、そういうちゃんと、生きていくのは無理だ。

夏休みの宿題は全然終わらなかったし、提出すらできなかった。

計画性はないし、自分を律する力もない。

ラジオ体操も、起きれないから行ってないし自分が一番上でも責任を持てなかった。

そういう人間だ。

ひとつひとつ努力をして、治していくことはできる。

今の私なら先に宿題を全部終わらせておくこともできるともう。たぶん。


それを、自分の意思ではなく

周りの目で動くのも間違いではないと思う。

結果的にきちんと提出出来たら、一つ成し遂げたことになると思う。


私の場合は、やってないのにやってないとうそをついているような、突き通して最後までいい加減にしておくような

それはできていないけど、他の部分をよく見せようとしたりそれとすり替えてしまうような、

そんな感じ。

何が言いたいかだんだんわからなくなってきたけど、

とりあえずすっきりしたら良しとしようか。


中途半端。

っていう生き方。

それがちゃんとできないからダメな人間なのではなくて、そういうとこはだめで治せたら治した方がいいけど、

私という人間は変わらない。

それが私。

たまに努力して、最後までできることもあるけど

全部ちゃんとしたりちゃんとした人間にはなれないということ。

頑張らないと、気を付けないと

最後までできないということ。


そういう人間ではないということ。

中途半端にならないようにいくつか手を打つ必要があるけど、

中途半端にしない全部をきちんとやり切るという人間にはなれないということ。

努力やがんばりで、何とかなる部分もあるけど

元のわたしは、中途半端な人間だってこと。あんまり卑下するのも違うかな。

卑下というか事実確認。

それすらも、自分を落ち込ませるならしなくてもいいかもしれないけど。


自分を大切にするって、無理しないって、そういうとこを認める事なんかな。

いい歳して、まだまだモラトリアムしてる。

ださ。


いい加減、こういう自分だって認めたらいいじゃんね。


#自己肯定

#自己否定 #認められない #認めたくない

#上昇志向というより 、現実逃避

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