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ナンバー2人物史 王佐の才 荀彧

荀彧(じゅんいく)は三国志の時代、最大勢力となった魏の曹操に仕えた名臣で、王佐の才という「王を補佐するのに相応しい才能を持つ人物」の代名詞とされています。

歴史にIFがあり、荀彧が曹操に仕えることがなかったら三国志の史実はどう変わっていたかわからないと言われるほど、初期の曹操を支えた名補佐役です。

個人的には諸葛孔明が好きな私ですが、客観的には孔明よりも荀彧の方が優れていたのではないかと思っています。

■荀彧の人物像

性悪説を唱えた思想家である荀子の末裔という名門の出身で、若い頃から優れた人格と才能が知られており、王佐の才の持ち主であると賞賛されていました。

曹操の元、荀彧は魏における戦略の立案や領地の統治、人材の推挙など、多方面に渡って活躍し、曹操の勢力の躍進に貢献しました。

荀彧は初め、出身地である潁川(えいせん)の太守・陰修に取り立てられた後、守宮令という中央の官職を得ました。

荀彧が朝廷に仕えた頃には、天子を抱き込み、好きに暴政をしていた董卓が台頭していた時期にあたり、間もなく打倒董卓のための激しい闘争が開始されることになります。

荀彧はこの乱の勃発を事前に予想しており、そのために官職を捨てて故郷の潁川に帰郷、さらに大陸の北部にある冀州(きしゅう)へと避難しました。

■名門袁家、袁紹への仕官を見送る

荀彧が冀州に向かったのは、冀州牧(長官)に招かれたためなのですが、到着した頃に、冀州の領土は後に曹操と官渡の戦いで対立する袁紹によって奪取されていました。

袁紹は名門袁家出身で、董卓討伐軍を主導する立場につき、群雄の中で頭角を表しつつあり、戦乱を勝ち抜くために、多くの人材を集めているところでした。

同郷の名士たちは袁紹に仕えますが、荀彧は袁紹は血筋こそよいものの、優柔不断で判断力に乏しく、大事を成し遂げられるような人物ではないと見限り、袁紹に仕えることは見送りました。

■曹操との出会い

その後、荀彧は冀州を離れ、曹操の陣営に赴きました。

この時に曹操は「我が子房(しぼう)なり」と言って、荀彧の訪問を喜び、そのまま自分の陣営に加わるようにと要請しました。

※子房とは、中国で紀元前206年から紀元前202年にわたり秦王朝滅亡後の政権をめぐり、西楚の覇王項羽と漢王劉邦との間で繰り広げられた楚漢戦争(そかんせんそう)において、劉邦の名参謀であった張良の字(あざな)のことです。

荀彧の才能を見抜いていた曹操が過去の名参謀になぞらえ、大喜びしたのも想像に難くないです。

曹操は荀彧に全幅の信頼を寄せており、重大事はすべて荀彧に相談のうえで決定したと言われています。

■曹操に戦略を説く

曹操が敵対する徐州の陶謙が病死したことを知り、徐州への侵攻を計画したことがありました。

しかしこの時はまだ兗州(えんしゅう)に流れてきた呂布と争っている時期であり、自軍の兵力が固まっていなかったので、荀彧は反対します。

「まずは兗州の統治を安定させ、兵糧をたくわえて呂布に勝利してから他の土地に侵攻すべきです」と説きました。

曹操は荀彧の助言に従い、兵糧を十分に集積してから呂布と戦った結果、呂布を討ち破り、兗州の統一に成功します。

曹操は前線での指揮能力は優れていたものの、全体の戦略を考えるのはそれほど得意ではなく、この点を荀彧が見事に補っていたことになります。

■曹操に献帝を迎え入れ、擁立すべしと説く

その後、董卓に擁立されていた献帝が、長安を脱出して洛陽に帰還していますが、朝廷には献帝を守る優れた臣下はいませんでした。

この状況に荀彧は曹操が献帝を迎え入れて擁立するべきだと主張し、曹操はこの意見をを受け入れ、曹操の本拠地である許昌に献帝を迎え、新たな都としました。

この功績によって曹操は大将軍に、荀彧も侍中・尚書令という地位についています。侍中は皇帝に側仕えする役職で、尚書令は皇帝の秘書官であり、朝廷の一切を取り仕切る権限を持っていました。つまり荀彧は皇帝の側近として、朝廷を主導する立場に立ったことになります。

荀彧の助言によって献帝を得たことで、曹操の陣営は漢王朝を背景とする正当性を確保したことになり、これによって政治的にも他の勢力よりも有利な立場を得ることができました。

■人材を推挙して曹操の陣営を充実させる

荀彧は本人が優れた能力を持っているだけでなく、多彩な人材とのつながりも持っていました。そして人々の才能を的確に見抜いて曹操に推薦しています。

有名どころでは、荀攸、郭嘉、司馬懿、王朗といった人材を推薦し、曹操の家臣団の充実を図っています。

もしも荀彧がいなければ、曹操陣営が優れた人材を多く抱え、他勢力よりも優位な地位を得ることはなかったかもしれません。

■袁紹との激突、官渡の戦いに弱気な曹操を激励する

袁紹との対決を前に、大きな兵力の差を目の当たりにしてさすがの曹操も弱気であったそうです。

そんな曹操に対して、曹操が袁紹に勝っている点を以下のように4つ挙げ、荀彧はこう元気づけました。

昔から、勝つか負けるかはトップの器量次第です。本当にトップに相応しければ弱小であっても強大になるし、その器量がなければ強大であっても衰えるものです。

袁紹は鷹揚に構えているが、実は猜疑心のかたまりで、部下を疑うような人物です。その点、殿は明達で、適材適所を徹底している。これは度量が勝っている証拠です。

また袁紹は優柔不断で煮え切らず、いつも好機を逃しています。殿は決断力があり、臨機応変な戦略に長けており、謀ごとの能力が勝っている証拠です。

さらに袁紹は軍の統制を欠いており軍令が行き渡ってないので、兵力があっても実戦の役には立ちません。一方、殿は軍令を確立し、信賞必罰で臨んでおられるので兵力は劣っていても兵は全員死ぬ気で戦う強者ばかりです。これは武略が勝っている証拠です。

そのうえ袁紹は名門を鼻にかけ、教養をひけらかし、評判ばかり気にする小物です。その結果、彼のもとに集まってくる人物は口先だけで役に立たない連中ばかりです。その点、殿はわけへだてなく部下を遇し、ご自身は質素な生活に甘んじながら、功績を挙げた者には賞を惜しみません。したがって、天下の心ある人物はいずれも殿のために働きたいと願っています。これは徳に勝っている証拠です。

以上4つの点で勝っている者が献帝を奉じて正義の戦いをするのです。いくら袁紹が強大であろうとつけ入る余地はありません。

これで曹操はすっかり自信を取り戻し、また普段の冷静さを保つことができたそうです。

■撤退を考える曹操を奮い立たせる

けれども、戦いが始まってみると兵力、物量においてまさる袁紹が優位に立ち、袁紹の大軍に包囲されて身動きがとれず、兵糧も尽き欠けてきたところ、さすがの曹操も本拠地まで撤退を考え、荀彧に手紙を送り、意見を求めることにしました。

これに対して、荀彧はこう答えたそうです。

兵糧不足に悩まされていることは事実ですが、先に撤退したほうが劣勢に立たされます。自軍の兵力は敵の10分の1に過ぎませんが、すでに半年にわたって敵の前進を阻んできました。敵の攻勢も今が限界です。やがてこの膠着状態が破れる時が必ず参ります。その時こそ奇計をもって一気に決着をつけるのです。

曹操は荀彧の意見に従って撤退を思い止まりました。そして袁紹のスキをついて奇襲攻撃を仕掛け、劇的な逆転勝利を収めることができました。

■深い信頼関係の破綻

曹操の覇業は荀彧の戦略構想なしには不可能で、荀彧は曹操にとって大功労者でした。そのことは曹操自身が誰よりも理解していたはずです。曹操は荀彧を列侯に封ずるとともに娘の一人を荀彧の長男に嫁がせるほどの親愛を示しています。

ところが、晩年に両者の関係は冷めたものとなり、荀彧は自害に追い込まれることになります。

そのきっかけとなったと言われているのは、董昭という朝廷の高官が、曹操のために朝廷に対して国公の封爵と九錫授与を願い出ようと考え、あらかじめ荀彧の意見を求めた際の荀彧の回答にあるとされています。

※国公の封爵とは爵位を求めること、九錫授与とは勲功のあった臣下に皇帝から賜る九つの品のことで、これを願い出るというのはいずれ帝位の譲渡の布石となることを意味しています。

「殿の立場は皇帝へ忠誠を守ることであり、殿自身が皇帝の地位を求めるようなことは君子としてあってはならないこと」と董昭に答えています。

荀彧にとっては主人として曹操は大事でも、漢王朝を盛り立てることが使命と思っていたので、こう答えるのは当然だったのかもしれません。

一方で、曹操は帝位という野心を内心秘めており、九錫授与の儀はまんざらでもないと考えていました。

これ以降、曹操は荀彧の存在を煙たがり、国政の中心から外してしまいました。曹操にとって荀彧はかけがえのない補佐役から自分の障害物に変わってしまったのです。

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荀彧の類まれなる才能と曹操に対する忠誠と実績についてお伝えしてまいりました。読後、どのような感想をお持ちになられたでしょうか。

荀彧の真っすぐ過ぎる性格が災いしたとも言えるかもしれませんし、曹操の手のひら返しのような対応に腹が立つという感想もあるかもしれません。

九錫授与について、荀彧と曹操との間で話し合う機会があったのかどうかは記録にはないようです。

曹操という傑物に仕えることができて、荀彧は本望だったと思いますが、それ以上に漢王朝の隆盛が荀彧にとっての最重要事項だったのでしょう。

曹操と荀彧とでは最終的な目的、目標がそもそも異なったのかもしれません。

荀彧なくして曹操の栄華はない。そう考えると後味はあまり良くないエピソードです。

ナンバー2はどんなに有能で忠誠心があっても、トップの変心に抗うことはできない立場です。

私も経験したことがあるので、荀彧の苦しさの一端は理解できるつもりです。

世の中は変化し続けますし、人の気持ちや考えも変わることがあります。その時にお互いに歩み寄ることができれば、こうした出来事は減るのではないかと思います。

トップである者は、自分の気持ちひとつで他人の人生を狂わせる権力を持っていること。

ナンバー2である者は他人に仕えながらも自分の美学を持ち続ける苦しさを持っていること。

権力を持っている側が強いことは分かり切っていることなので、トップである者は少なくとも己の欲のために他人の人生を蔑ろにしないで欲しいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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