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彼女とわたし

村山由佳『二人キリ』(集英社)

ふたりともがお互いの中毒患者みたいだった。

p. 384

これまで読んできた村山作品の中で一番読み進めるのがしんどかったかもしれない。

思い当たる要因はいくつかあって、一つは舞台となっている明治後期〜昭和初期の様子をあまりわかってないこと。一つは芸者界隈の言葉遣いや慣習辺りも知識が乏しすぎるということ。

だけど、しんどかった一番の理由は、本書の内容があまりに濃くて、どろりとした粘度の高い血液を飲まされているような、生々しくて飲み込み難い感じを一貫して受けたから。

正直、村山さんの著書でなければ、読まなかった題材だったと思う。
言い換えれば、村山さんが執筆してくれたおかげで、また新しい扉を開けてもらえた、とも思う。

阿部定という女性は、あまりにも私からかけ離れた人物のように思えた。思考も感情も行動もあまりに理解しがたく共感もし難い。感情移入も同情もし難い。

それは例の事件を起こしたからではなく、本書で描かれる彼女の幼少期から老年期のどこをとっても、わたしとは思考回路や行動指針がまるで違ったから。
(時代や境遇がまったく違うことを差し引いたとしても。)

…と言いつつ、心の奥底では、もしかしたらわたしの中にも彼女のような激情を孕んでいないとも限らない…何かのきっかけでそれが爆発しないとも言い切れない…という慄きを覚えてしまったのも事実で。

彼女はわたしとは全く違う人間。そう易々と切り離すことはできない。
共感も同情も理解も難しいけれど、本書の最終章に描かれたような穏やかな最期を、現実世界で送れてたらいいなと、願う。

こういう気持ちを抱くのは、村山さんの筆力にまんまと嵌ったからな気もする。
これまで読んできた作品のように、登場人物誰一人見捨てない優しさや、純粋に幸せを願うあたたかさを誌面から感じたから。

・・・

読んでいる最中、テレビドラマ「MIU404」を思い出したりもした。
志摩(星野源)がルーブ・ゴールドバーグ・マシン(ピタゴラ装置)を拵えてパチンコ玉を転がしながら話す1シーン。確か3話だったか。
「たどる道はまっすぐじゃない」
「人によって障害物は違う」
「誰と出会うか、出会わないか。この人の行く先を変えるスイッチは何か。その時が来るまで誰にもわからない」

阿部定も、例えば15歳の時にあんなことに遭わなければ。例えば秋葉の元へ送られなければ。例えばあそこに行かなければ。例えばあの人と出会っていなければ。例えば二二六事件が起きなかったら…彼女の行く末は全く違うものだったかもしれない。
吉蔵に出会うことなく生きたかもしれない。
そうしたら事件を起こすこともなかったかもしれない。

ただし、もしもそうなっていたとして、それは彼女にとって幸せと呼べるものになっただろうか、とも思う。

・・・

本書を読んでもう一つ強く思ったことは、一人の人物を丸ごと知ろうとするのは、困難だということ。
当たり前のことだけど、見落としがちなこと。

いくら周囲の人に、親しい人に、その人のことを尋ねたとして、それは人それぞれに都合のいい解釈をされた人物像でしかない。

本書の中でも、主人公・吉弥は阿部定に関わった人たちにインタビューをしていく。でも、いくら彼らの話を聞いたところで、核心は定の中にしかない。
定の話を聞くことに成功しても、それがどこまで真実かは検証のしようがないし、吉弥の解釈が定とイコールになることはそもそも不可能。
結局、その人の真実はその人の中にしかない。

そう思うと、他人を語るというのはなんて自分勝手で無責任な行為なんだろうと思えてしまう。

そんなことを考えると、本書をはじめ、評伝小説を書く作家さんは、どれほどの恐怖や不安を感じ、それらをどう克服して筆を進めるのだろう。

彼らにとっての〈真実〉は、その人たちの目から見た一方的な解釈でしかないんだから。

p. 17

自分を一個の人間として見ない相手と、まともに話そうとは思わないもんだろ

p. 205

すぐれた小説なら、事実の軛を振り払って、真実に迫ることができる

p. 264

人の気持ちってさ、理詰めじゃないのよ。

p. 377

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