ののはな通信/三浦しをん
本を中盤まで読んだころ、この本は高校生で出会った二人が少女から大人になる過程を描いた物語だと思った。しかしながら、すべてを読み終えた今、私の中でこれがどんな物語であるか、まとめる言葉が見つからない。面白い!ではなく、ただただすごいものを見た(読んだ)気持ち。
二人の少女が女子高で出会い、友人以上の関係へと発展していく。読者は二人の成長の様を二人がやり取りする手紙のみで知る。高校時代の二人が、何でもないことも手紙で報告しあうあたり、懐かしくて自分と重ねずにはいられなかった。そして二人の間に特別な思いがあると気づき、共有してからというもの、すぐに壊れてしまいそうで、危なっかしく思えた。学生時代特有の感情をオブラートに包まず、ダイレクトに伝えることの脆さと危うさ。でもだからこそうつくしく、輝いていて眩しいのでしょう。渦中にいるときは全くわからないけど。本文中にこれらを素敵に表している文章があった。「時間が研磨剤。磨いて初めてダイヤモンドだったと気が付く。」と。
大人になった二人が、空白の時間がありながらも、それらがまるで嘘のようにやりとりをする。誰しもが二人の間には入れない確固たるものがあり、友人、元恋人、親友、愛する人?全てが当てはまらないような、いや、全てが当てはまるような関係性だった(羨ましいね)。
青い季節に生きていた二人にはあまりにも大きすぎて受け入れられるほどの器がなかったものが、年月を経るうえで、ようやく自分の中になくてはならないピースとして形を合わせて確立できたのだろうか。おさまりがわかったというか。
でも何だろう。読んだ後のうつくしくてすごいものを見たという感情とともに、少しの息苦しさを感じたりするのです。これが何かわかりません。どこにいても何をしているか知ることができなくても、大事に思い続けることが愛なのであれば、私は愛を受け入れるだけの器は今はまだ持ち合わせていない。だからこそ、ずっとずっと、理解できるまで大切にしたい物語であり、理解したいと思わせてくれる作品。
(あとがき)
三浦しをんさんのインタビュー記事を読んで、「他者」こそが生きる希望であると。二人が出会って、たくさん愛し愛されたからこそ、その自信が、思いが、記憶が、互いの人生に影響を与え続け、会えなくなっても、互いの近況を知ることができなくなっても、その存在こそが生きる希望である、と。
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