anti-imitation


カラオケで本家ボーカリストの歌い方を真似する人が嫌いだ。

キャリア形成の話題における「ロールモデル」という言葉が嫌いだ。

フィルムカメラを「エモい写真が撮れるから」という理由で使う人が嫌いだ。



書き始めから強い言葉を使ったが、これはわたしの「創作屋」としてのささやかな矜持である。

とは言え今はそんなにコンスタントに創作活動をしているというわけではないから、そのわたしを「創作屋」として矜持を語るのはいただけない気もする。

だから、これはわたしの「創作活動を生業にする者を志した人間」としてのささやかな矜持である。






例えば「軽音楽サークルでボーカルをやって3年の大学生」と「プロでバンドをやって15年のボーカリスト」がいたとする。

このとき、大学生とプロのボーカリストを比べて大学生の方が上手だ、なんてことはまずない。そいつの方が上手なのであれば、そいつはとっくにプロのステージに上がっているに決まっているからだ。


視点をもう一段階寄せてみる。

「歌が上手」というのにもいろいろある。
感情の込め方が上手とか、耳に馴染む声で歌うとか、ピッチの精度が高いとかそういうこと。

このとき、大学生は「感情の込め方」でプロに勝てなくても「耳に馴染む歌い方」で勝てることがあるかもしれない。


カラオケで本家ボーカリストの歌い方を真似する人が嫌いだ、と書いた。

プロがプロの曲をカバーするとき、当然カバーして歌う側は「歌う曲とその作り手、オリジナルのボーカル」に対する強い敬意を持って歌うに決まっているけれど、だからといってオリジナルの歌い方を真似することはないだろう。

それは「その歌い方で一番その曲を輝かせられるのは本家のボーカリストである」というリスペクトがあるからで、
その前提を置いた上で、「では自分はこの曲を輝かせるためにどのようなアプローチができるでしょうか」と考え、「自分の表現」として落とし込む、というのが「表現者としての敬意」なのだと思う。

逆に言うと、それができない人をわたしは「表現者」として認めたくないのである。


「嫌い」というのはあくまでわたしの主観であって、実際の話として「カラオケで本家ボーカリストの歌い方を真似する人」が自分のことを「表現者」として自覚しているかと言えばそうでないことの方が多いと思う。

「真似して歌うと楽しい」「そういう風に歌いたいからそういう風に歌っている」が悪いわけではない。間違っていると言うつもりは一切ない。

ただわたしが、わたしの尺度の中で、そういうものに理解を示せない、というだけの話である。






「仕事をする上で、この人みたいになりたい、と思える人はいますか?」
というようなことを職場のキャリア面談で訊かれたことがある。

大きく「専門職」に分類される職を持つところのわたしが「専門性を伸ばして将来的にはその道のスペシャリストになりたい」のか「手に付けたスキルや知識を活かしてチームをまとめる側になりたい」のか、みたいなことを問う質問だと理解している。


でも、ここで例えば「この人みたいになりたい」と言ったとして、それが達成されたあと自分には何が残るんだろう?とかを考える。


キャリア形成の話題における「ロールモデル」という言葉が嫌いだ。
目標を他人に求めるのが正しいとはわたしは思えない。
A、B、Cの3つのモデルがあったとして、その中のどれかを選んでしまった瞬間「自分がDになる」という可能性を潰してしまうみたいで嫌だ。

常に手の届かないもの、まだ知らないものに憧れている。
いつか自分が「まだ誰も知らないもの」になれると、信じてはないけど諦めてもない。






わたしはフィルムカメラを使っている。

身も蓋もないことを言えば「初期費用が安かった」というのは理由の一つなのだけど、それ以上に「むやみやたらと連写できるものではない」ことに魅力を感じたからである。

行動の回数に制限があって、その制限された中でどれだけ欲しいものを掴めるか、というのがフィルムカメラの本質だと思っている。


Instagramを見ているとたまに「フィルム風の加工のやりかた」みたいなポストが流れてくることがある。
フィルム風の写真が撮れるスマホアプリもある。

デジタルカメラやスマホで何枚でも撮れて、レトロで可愛い、というのをインスタントに「エモい」という言葉で消費する風潮が嫌いだ。

質感がどう、とか、色味がどう、とか、そういうのって結局「そういう方法でしか風景を複製できなかった頃の古い技術の副産物」であって、それを都合良く「フィルム風」であることを目的として模倣しようとする感性が、わたしとは相容れないものだと思う。






結局「真似」とか「模倣」をどれだけ本気でやったところで本物を超えることってないと思う。何故なら、本物は「本物」だから。

もちろんその過程で得られる技術や気付きがあることは否定しない。誰だって絵の練習をするときは模写から始めるし、いろんな作家の画風を真似るものだし、それは練習方法として正しい。

でもそれは所詮模倣であって、それを「自己の表現」だとか「自分の人生」に持ち込んだ時点で負けてんじゃん、と思う。



好きな写真家と同じカメラを持っている。
手持ちのカメラ3台のうち2台がそう。
散々「真似っこが嫌いだ」と言いながらお前もそういうことしてんじゃん、って言われそうだなと思っている。

これについて普段はよく「選ぶのが面倒だから間違いなさそうなものを買おうとすると真っ先に『好きな人と同じもの』になる」と言い訳をしているのだけど、これは部分的に正しくて部分的に正しくない(出来損ないのアキネイター)。


わたしが欲しいのは「好きな人と同じカメラ」ではなく、「同じ景色を同じカメラで撮っても好きな人が撮ったものと同じ写真にならない」という現象である。



人が「写真って結局その場の全てを記録できるわけじゃないし不完全じゃないですか、だからそんなに興味が湧かないんです」と言っているのを見たことがある。
その通りだと思う。異論のひとつもしようがない、事実だからね。


では写真を撮ることに何の意味があるのか、と言うと、「どのように情報を削ぎ落とすか」にその人の文字通り“世界観”が現れると思う。


穿った言い方になるけれど、「写真を撮る」というのは「完全なものを壊して見えているものに蓋をする」ことだと思う。
不完全であることに意義がある、と言えばいいのかな。



昔仲の良かったデザイナーの友人が「デザインとは見栄えを良くすることではなく、情報の伝え方をコントロールすることなんだ、『シンプルイズベスト』とはそういうことだ」と語ってくれたことがある。


この世界は溢れてまだ有り余るほどの情報を抱えていて、その世界のほんの一部、さらにその「世界のほんの一部」が抱える永遠の時間の中のほんの一瞬間を写しとるのが写真を撮るという行為。

被写体に意識を向けさせるために背景をぼかしたり、光を見せるために絞りを開けてピントをずらしたり、カラー写真が一般化した今になってなおモノクロで景色を写したり、我々はあらゆる方法で「そこにあったはずのもの」を切り捨て、削ぎ落とす。

さらにそのたくさんの“選択”に残った光の中で人前に出すものをまた選ぶ。
その行き場はInstagramかもしれないし、Twitterかもしれないし、写真集かもしれないけれど、ここでもまた「そこにあるもの」が表現として切り落とされる。



そういう、「何故やるのか」「何故その道具を使うのか」を自分の中で明確にする、というのがわたしがささやかながら自己表現を続ける上で大切にしている矜持である。

他人の模倣や後追いをするだけの趣味ならそれは表現でも創作活動でもないし、人の後を追って生きることに価値があるとも……少なくとも今のわたしは思えない。
自分がやるなら、「自分がやらなければいけない理由」「自分でなければいけない理由」がないと嫌だ。


この世の表現者、作家は一体何故表現をしているんでしょう、そこにはどれだけの自我や信念があるんでしょう、というのを、東京ビッグサイトを埋め尽くす大量の創作屋さんたちを目の当たりにして思ったり。

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