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私の書きたいこと

noteを始めてみて改めて痛感しましたが、文章を書くのは本当に難しいですね。

いろいろと頭の中に考えはあるはずなのに、いざ書いてみようとすると、うまく表現できなくて、なんだか薄っぺらくなってしまうし、結局、何が言いたかったのかわからなくなってしまいます。

私が書きたいのは、主にこころのことで、それは誰かのために役立つことを伝えたいというよりは、自分のために感じたことや考えたことを書き残しておきたいからです。

私は言葉を口にするのがうまくなく、それ以前に、頭の中の考えがいつも言葉という形でうまくまとまらないので、いつまでも同じ考えが頭の中をぼんやりと漂ってしまい、それによって不安や焦燥が生じているのだと思っています。

なので、無意識のうちにいつも頭の中にあること、ふとしたときに蘇ってくる過去のこと、心身を壊して気が付いたことなどを、ひとつひとつ言語化して残しておきたいのです。

私の頭の中を漂う、言葉になる以前の想念を、掬っても掬っても言葉という形で掬い上げることのできない、もどかしさ。そのことによって生じる、漠然とした不安や緊張、焦燥感。

書くことによってそれらを少しでも取り除いて、暴走した感情に再び支配されることのないように。私が、感情を支配することのできるように。心身を健やかにするために自分でできる療養のようなものです。

多和田葉子さんの『言葉と歩く日記』(岩波新書)を読んでいて、面白い文章を見つけたので、少し引用します。

「頭に次々と雑念が浮かんでくる自分というものを突き放して見て、その雑念をさっと水に流して」(中略)などの文章に導かれて瞑想状態に入っていくとする。その状態には言語なしでは入れないわけだから、瞑想は言語のない世界ではなくて、無駄な言語を別の言語で追い払う作業、つまり文学と似ているのではないのか。無駄な言語というと誤解を招くかもしれない。瘡蓋のような文章と言ってもいい。たとえば「自分はなんて駄目な人間なんだろう」という紋切り型に頭を支配されて現実が見えなくなってしまっている人がいる。これはいつか傷つき、もう血は流れていないのだが、瘡蓋をはがすとまた血が流れるので、いつまでも死んだ肌に過ぎない瘡蓋文にしがみついている。


私は、私の頭の中にある瘡蓋のような文章を、きちんと認識して、言語化することによって、追い払いたいのだと思います。今後、何度も何度も、同じことを繰り返し思い出さなくていいように。

いまは多少の痛みを抱えながらも、なんとか感情に振り回されずに生活できていますが、また、いつ、こころが解き放たれてしまうかもわからないので、自分のためにできることを少しずつやってゆきます。

稚拙な文章ですが、読んでくださる方がいること、とても励みになります。本当にありがとうございます。

あまり楽しい話題は出てこないかもしれませんが、気が向いたときにでも、ふらっと立ち寄って読んでいただけると嬉しいです。

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