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太宰治と、人間失格から考える孤独

久々に文章を書きたくなって、書き始めた。更新が面倒になったとか、そういうのではなくて、なんとなくネタが無い日々だった。

更新をするのは久々だけれど、Noteはたまにチェックしていた。
タイムラインから知人の文章は徐々に消えていき、最近ではもう殆どなくなってしまった。

知人の文章を読むのは結構好きだったので残念な反面、自分の文章を知人に見られる機会が減ったことが少しうれしい。なんだかんだでブログとか、そういうのを知り合いに見られてしまうのは何か恥ずかしいものだ。

コソコソと文章を書いている自分の根暗さにも少し悲しくなったりもする。

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さて、最後に記事を書いてから季節は流れて、もう冬の気配すら感じる11月末である。残暑に耐えながら短い秋を楽しみ、今度は冬の備えと忙しない。

この数ヶ月で仕事にも慣れてきて、考え事をすることも増えてきた。溜まってきた本も読んだし、pythonを勉強してアプリを作ったり、副業で写真の販売をしてみたり、新しいことにも取り組み始めた。

そのなかでも、太宰治の人間失格をもう一度しっかり、読み直してみた。
「人間失格」は太宰の遺書とも言われている作品だが、文章の各所に太宰の苦悩が感じられた。

ここ最近芸能人や有名人の自殺が相次いだこともあり、なんだか身近な話にすら感じてしまった。

おそらくこの作品は太宰の人生をかなり反映しており、主人公のように、普段さらけ出せない自身の苦悩を作品として世に出したのではないか。

この作品の主人公は「道化」であり、取り繕った自分でうまく生きていこうとする。そうした人間はうまく行けば行くほど取り繕わなければならず、その繰り返しでもはや本当の自分が誰かと交わることはなくなるのである。

SNSによる日常的な繋がり、コロナの時代、マッチングアプリの流行、自粛、同調圧力、社会的制裁、人工知能、転職。

現代は太宰の時代よりも孤独をはらんでいる。太宰が苦しんだ孤独とは、物理的に独りであることではなく、「実質的に独りであること」だろう。

こうした苦悩が自死をもたらすほど、人間は社会的な生き物であることにはいささか驚きである。独りが好き、という人もいるが、そうした人には家族や理解者、なにかしらの心の拠り所があるのだろう。

うまくやり抜くために自分を取り繕い、「実質的な孤独」から抜け出そうとしても結局のところ、
誰にも「本当の自分」も「取り繕った事実」も打ち明けられずにまた孤独を加速させる生き方の社会性のなさに、人間失格というタイトルをつけたのだろうか。

私は昔から、人間失格というタイトルに違和感があった。その重いタイトルの割に、太宰の苦悩は細部に在るからだ。大罪を犯したというよりは、うまくやれない自己嫌悪の集大成が肥大化したというかなんというか、そういう感じなのだろうか。まだうまく理解はできていない。

突出した才能や特徴がない、所謂「平凡」と呼ばれることにコンプレックスを持つ人々はこうした孤独に陥りやすいから注意が必要だ。

平凡な人々は、「デキる」奴らと戦うためにうまくやろうとあれこれ模索して乗り越えていく。そうした人生を過ごしてやがて、自分で自分の強みを平らにしていることに気が付き、コンプレックスを自分で悪化させていく。

その過程で習慣になっていく取り繕う癖は、実質的な孤独を強める。こうした人は実際多いだろう。社会的な生き物というのは、哀しい生き物である。

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