「中央区」町名&由来紹介 1

画像1 「中央区三十七町と東銀座」として旧電通ビル解体工事の仮囲いパネルに紹介されていたのをご紹介。
画像2 中央区は、江戸の城下町として埋立造成され、江戸時代には武家屋敷や寺社地や商業地ご広がってました。明治になって、今の中央区の原型となる日本橋区、京橋区が設置された頃には、両区内に290以上にのぼる数の町があったといわれてます。
画像3 展示風景 後半:https://note.com/gyutango/n/ne5e6e3f88cc6
画像4 京橋 日本橋を起点にして京に上がる東海道の最初の橋だった。江戸時代、京橋川河岸は大根を中心とした野菜の荷揚げ市場だった
画像5 明石町  町名の由来は、江戸時代に播州(兵庫県)明石の漁師がこの地に移住したためとも言われる。 外国人居留地跡として、異国情緒が垣間見れる。
画像6 新富町 明治の初めに花街として栄えた新島原の「新」と江戸時代からあった大富町の「富」を合わせて命名。この地に守田座が進出し、のちに歌舞伎座ができるまで演劇の中心地であった。
画像7 湊  隅田川を臨む町で、江戸時代に大型船が荷物の揚げ降ろしをする江戸湊として発展
画像8 入船 かつて町の西側にあった入船川が町名の由来。明治初期に軍靴製造工場「伊勢勝 造靴場」があった
画像9 浜離宮庭園 かつて徳川氏の別邸「浜御殿」と呼ばれ、幕末には石造洋館延遼館を建設。明治3年宮内省に属した際、浜離宮と改称。
画像10 八丁堀 江戸城の防衛や物資運搬のために作られた水路の名に由来し、その長さが八町(約872m)であったことから、八丁堀と呼ばれた。
画像11 新川 万治年間(1658-1661)に開削された堀割を新川と称した。江戸時代から戦前まで酒問屋が集中しており、その名残をとどめている。
画像12 日本橋本石町 江戸時代に金貨鋳造や鑑定を行った場所「金座」が置かれた町。現在その跡地に日本銀行本店が所在する。かつて、米・穀物・の商人が多く住み、単位の「石」に由来して町名が名付けられた。
画像13 日本橋本町 徳川家康が最初に町割を行った地。江戸と日本橋の中心的地域であることから生まれた町名。薬問屋が多い。
画像14 日本橋室町 名前の由来は、京都の室町にならったという説と商家が多く集まっており、その土蔵(室)が立ち並んでいたためという説がある。江戸時代から金融業者や大商人が多く、大呉服商「三井越後屋」があった。
画像15 日本橋小舟町 慶長8年(1603)の町割りの際はし下舟町とよばれたが、享保5年(1720)に大船町の旧名に対して小舟町となる。かつて西堀留川が流れ多くの江戸錦絵の団扇問屋があった
画像16 日本橋小伝馬町 江戸城郭内の伝馬役所がこの地にあったことが由来。江戸以前より奥州街道に沿って往来があった地。十思公園には江戸の時を知らせた石町の鐘が保存されている。
画像17 日本橋大伝馬町 江戸の市内から郊外の宿場をつなぐ伝馬役所があった。旧2丁目は通旅籠町といい、日光東照宮の祭礼に派遣された勅使が宿泊。歌川広重の「名所江戸百景」では大伝馬木綿店・大伝馬こふく店が描かれる。
画像18 日本橋堀留町 掘割(東堀留川)の行き止まりにあった町。古くから日本橋地区の商店街・問屋街があった。富くじで有名な椙森神社がある。
画像19 日本橋富沢町 江戸時代に呉服問屋や古着屋が軒を連ね、現在も繊維業関連の問屋が並ぶ。江戸の盗賊の取締りを命じられた鳶沢甚内に支給された土地で、初めは鳶沢町といっていた。
画像20 日本橋人形町 操り芝居や浄瑠璃芝居の小屋が並び、多くの人形師が住み、人形店が並んでいた。俗称だっただ関東大震災後正式名称となる。かつてはこのあたりは吉原と呼ばれたいた。
画像21 日本橋小網町 小網神社の名にちなむとされる。漁村として発達し、江戸中期以降は船積み問屋が多かった。歌川広重「名所江戸百景」では「鎧の渡し」が描かれる。
画像22 銀座 銀座とは銀貨鋳造所のこと。慶長17年(1612)駿府(静岡)からこの地に移設。俗称で銀座と呼ばれる。明治2年1869より町名。ガス灯、柳並木、乗合馬車が文明開花の先端を切った。

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