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【note創作大賞2024】スカートとズボンの話 〈4〉霞が関コンフィデンシャル

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第4話 霞が関コンフィデンシャル

2006年

 公園で依頼を受けてから2週間後、わたしは、霞が関の装美監理庁そうびかんりちょうに通いはじめた。
 merメルbleueブルの定休日を利用しながら週に2,3日出勤し、ガイドラインの叩き台が完成するまで協力することになったのだ。

はなさん、一緒にランチ行きましょう」
 声をかけてきたのは、オオシマさんだ。ごく平凡な名字のわたしは、早々に「華さん」と呼ばれるようになった。

「オオシマさん、さっきはありがとうございます」
 彼女はつい先ほど、わたしの作った資料をコピーしてくれたのだ。大量の資料はきれいにステープル留めされ、あっという間に仕上がっていた。

「いやだー、お礼なんていいんですよ。あれが仕事なんですからあ」
 膝丈スカートにパステルカラーのツインニットのオオシマさんは、可愛らしく返事した。リアル「カニちゃんOL」だ。洋服の仕事をしているのに、こうやってリアルなオフィスコーデを見る機会は、なかなかない。

 「ランチ、カミジョウ補佐も一緒なんですけどいいですか?」
 オオシマさんは、少し声をひそめてわたしに言った。おじさんなんですけどね。でも紳士だし、優しい人なんですよ。おごってもらいましょ。

 ほどなく、そのカミジョウ課長補佐が合流した。ずんぐりとして目が優しい、鷹揚な雰囲気の人だ。わたしたちはオフィスを出て道路を渡り、別のビルの中の蕎麦屋に入った。


「mer bleueの店長さんとお仕事できるなんて、うれしくて。友達に自慢しちゃう」
とオオシマさんは、顔の前で両手を合わせた。

「有名店のハウス・マヌカンさんを引っ張ってくるなんてなあ。さすがは誠順くんだよ」
低くよく響く声の、カミジョウ補佐が言う。オオシマさんは、なんですかあハウス・マヌカンって、と口をとがらせた。
「ははは、今はハウス・マヌカンって言わないのかい。ブティックのお姉さんのことだよ」

 わたしは、その節は大変お騒がせしました、と頭を下げた。

「いやいや、気にすることはないさ。でも誠順せいじゅんくんに、口説き落とされて来たんだろう。何しろやり手だからな」

 口説き落とす、なんて響きに少しだけドキッとしながらわたしは、そうですねえ、と笑って答えた。
「そんなにやり手なんですか、彼は」

 そうだねえ、とカミジョウ補佐は少しだけ声をひそめた。
「うちはこう見えても、ときどき『反社』事案があるからね。そういうのでも、彼はいい働きをしてくれるよ」

 下衣選択法に、反社会的勢力が絡んでくることがあるのか。いったいどんな風にだろう。わたしは興味津々だったが、こんなところで詳しく聞くこともできないだろうから、黙って頷いていた。

 めいめいに注文した蕎麦がきて、わたしたちはしばし、蕎麦をすすった。2週間前は、こんなところで蕎麦をすすっている自分など想像できなかった。東京には、わたしの知らない場所がまだまだあるのだ。

「誠順さん、東北の老舗旅館の御曹司なんですよ。だからゆくゆくは帰って、後を継ぐんですって」
オオシマさんが言った。

 わたしは、へえー、とうなった。「反社」事案の次は、老舗旅館。頭がごちゃごちゃだ。

「惜しいよねえ。できるだけ、ここに長くいてほしいけどね。あの年代はただでさえ少ないんだから」

「私だって、今年で終わりですもん。次探さないと」
オオシマさんが言った。彼女は臨時職員で、今年度限りの契約だそうだ。今はどこもかしこも、非正規職員なしでは成り立たないのだ。


 蕎麦屋を出てカミジョウ補佐と別れ、2人でコンビニに立ち寄っているときに、オオシマさんが言った。
「私ね、誠順さん狙ってたんですよ」

 そうなんだ、と目を見開いたわたしにオオシマさんは、だって、と両手で口を覆って照れながら言った。
「あんなヨレッとした感じなのに、お育ちの良さがにじみ出ちゃってるんですよ。ときどき急に『あなたは』とか、言いません?  あの感じで言われるともう、キュンキュンしちゃいますよね!?」

「ちょっとよくわからないけど……」
低い声で「あなたは」と物まねをしながら話すオオシマさんに、わたしは笑って答えた。

 そうか、あれはわたしにだけじゃなかったのか。わたしは少し、いや大いに残念な気持ちになった。

 でもね、とオオシマさんはつづけた。
「あきらめました。だって結婚したら、老舗旅館の若女将ですよ。しかも東北の。私そんなの、絶対無理ですもん」

 それで昔、彼女と別れたりもしたらしいですよお、とオオシマさんは言った。なかなかの情報通だ。わたしの頭の中でいろいろな情報がごちゃまぜになって、気持ちがざわついてきた。

 わたしは午後から、オオシマさんに印刷してもらった資料で、大勢の職員にレクチャーをしなければならない。つとめて頭を切り替えた。


「まず規定すべきことはトップス、つまり上衣じょういの丈です。上衣とワンピースを明確に分け、混乱を避けるためです。私が言うのも恐縮ですが……」
 会議室は、軽い笑いに包まれた。わたしは資料の図を示し、上衣の丈の計測方法を説明した。

「あとは、どこまでが上衣でどこからがワンピースとするのかが問題です。これは提案ですが、平均的にヒップが隠れる丈を境界とすればいいのではないかと思います」

 会議室には、誠順もいる。わたしの話を熱心に聞きながら、メモを取っている。

「ここからは、今後の流行を見据えた提案です。近い将来の予想ですが、単筒の人がスカートやワンピースの下に穿くタイツのような、レギンスというものがありまして……これと、複筒の人が穿くスリムなパンツとの違いが、曖昧になる可能性があります。例えば、ジーンズのデザインをした厚手のレギンスが、単筒用なのか複筒用なのか? そういった判断に困るものが出てくると思います」

 会議室がざわついた。少しややこしい話をしてしまったかもしれない。

「これについては、布地の厚さを基準にすればよいかと思います。布地の厚さの単位、デニールやオンスなどというものがありますので、そういった基準で、単筒用・複筒用を区別するということです」

 そんなものまで出てくるのかねえ、ややこしくてきりがねえなあ、ざわついた会議室から、そんな声が聞こえてきた。

「ちゃんと聞きましょうよ。貴重な見解ですよ。あらゆる可能性を考慮して策定するんだって、前回決定したじゃないですか」

 誠順が、ざわつく面々に一喝した。
 ぼやいていた人たちはばつの悪そうな顔をして、口をつぐんだ。


 次の日は、mer bleueへ出勤した。

「ねえねえ、OL1日目の感想はどう?」
耀子ようこさんが、好奇心たっぷりに質問してくる。

「楽しかったよ。けっこう皆いい人でね。カニちゃんOLみたいな子がいて、一緒にランチしたりとか、おじさん上司も一緒に来ていろいろお話したり」

 完全にOLじゃん、と耀子さんは目を輝かせる。

「そうなの。会議で大勢の前で説明するのは緊張したけど。ややこしいとか、ブーブー文句言う人もいてね。でもこの前来た査察官の人がね、フォローしてくれたんだ」

「え、寺尾聰?」

「そうそう。いい人なの。頼れるんだよ」

 わたしはできるだけさらっと、誠順の話をした。本当は彼のことで頭がいっぱいなことを、悟られないように。耀子さんは、ふうん、と頷きながら聞いていた。


 その日の営業が終わった後、耀子さんは急にこんなことを言い出した。

「華、あたしはね、華のことほんとに信頼してるの」

「どうしたの、急に」

 耀子さんは、別にどうってことではないけど、とつづけた。
「今回のチュニックワンピースのことだってね、少しは心配だったよ。でも華の判断にまかせれば大丈夫って。何かあるかもしれないけど、最終的にはプラマイで言ったら絶対プラスになるって、そう信じてたよ。結果そうなったよね。知名度が高まった上に、政府の覚えまでめでたくなって、ブランド力が高まりそうだし」

 耀子さんが、そんな風に思ってくれていたなんて。わたしはうれしいのと、どうしてそんなことを言うんだろうという気持ちで、次の言葉を待った。

「仕事に関してはそう。華のカンは抜群。でもね華って、男の人のことになると違うよね。途端に危なっかしくなっちゃう。そっち行っても幸せになれないよ、って方向にどんどん行っちゃう」

 何よそれ、いつのことを言ってるの。ドキドキしながらわたしは、冗談めかして笑った。

「さあ、いつのことでしょうね」
歌うように言いながら耀子さんは、店の後片づけをはじめたのだった。


 19時を過ぎ、わたしはまだ装美監理庁のオフィスにいた。

 パーティションに区切られた会議スペースの中から、カミジョウ補佐が手招きした。
「華さん、資料作り疲れたろう。美味しいコーヒーがあるから飲んで行きなさい」

 共用スペースなのにそこにはなぜか、カミジョウ補佐専用のドリップセットがあった。益子焼のようなカップに、補佐はコーヒーを淹れてくれた。

 わたしは会議スペースの椅子に腰かけて、コーヒーを味わった。甘くて、ため息の出るようなようないい香りだ。
「すごく、美味しいです」
 カミジョウ補佐は、にっこりと頷いた。

 わたしは、この前ランチのとき聞いた話がとても気になっていた。今なら、聞いてみてもいいだろうか。恐る恐る切り出してみた。

「実は、この前から聞きたいことがあったんですけど」

「おお、なんだい」

 わたしは、声をひそめて聞いた。
「この装美庁に『反社』事案があるって、おっしゃいましたよね。どんなものなんですか?」

 カミジョウ補佐は、笑ってコーヒーポットを置いた。
「そんなことが知りたいのかい。いいよ、説明しよう」

 すると、パーティションをドアのようにノックする音がした。
「補佐、またサボってるんですか。俺にもコーヒーご馳走してくださいよ」 
 入ってきたのは、誠順だった。片手に自分のマグカップを持っている。

「おお誠順くん。ちょうどよかった。華さんに、うちの『反社』事案について聞かれてね」

「そんなこと知りたいの?  さすがだな」
 誠順は、楽しそうにわたしを見た。
 そういえばあの公園で、普通の洋服屋の姉ちゃんじゃない、なんて言われていたのだった。斜め前に座った彼の姿に、わたしは心臓がどきどきと鳴った。

「ほとんどが、ウェディング案件ですよね」
誠順にそう水を向けられ、カミジョウ補佐は頷いた。
「そう、ウェディング業者が複筒の顧客のために、偽造された『単筒証明書』を用意してお金を取って、それが奴らに流れる」

 単筒・複筒の別は、専用の証明書に記載される。運転免許証と同じ、公的証明書だ。洋服を買う度に提示が義務づけられているわけではないが、求められる場合もある。アルコールを買うときのようなものだ。

 中でも、結婚式でウエディングドレスを購入したりレンタルするときは、必ず提示が求められる。

「ウエディングドレスを着たい複筒の女性や、親御さんの心理につけこむってわけだ。つくづく、罪作りな法律だよ」
カミジョウ補佐はため息をついた。

「まさかっていうような有名な業者が、やってるんですよねえ。結局、それだけ需要があるってことなんですかね」

 ウエディングドレスを着たいだなんて、わたしは1度も思ったことがない。でも、両親はどうなんだろうか。14歳で複筒を選んだときの母の取り乱しぶりを思い出して、わたしは胸が痛んだ。今になってはじめてそんなことを考えるなんて、わたしはなんて親不孝な人間だろう。


 そもそもどうして、とわたしはつぶやいた。
「どうして、下衣選択法ができたんでしょうか…… すみません、質問ばっかりで。お話できないようなことだったらいいんです」

 インターネットの掲示板では、下衣選択法についておどろおどろしい陰謀論のようなものが、まことしやかに語られていた。
 真実は何なのだろうか。これまでこの法律に対して特別な興味はなかったわたしも、せっかく本丸ともいえる場所に来たのだから、ぜひ聞いてみたいのが本音だった。

 カミジョウ補佐は、うむ、と頷いてコーヒーを一口飲んだ。
「案外、つまらないことなんだよ。一言で言うと、バブル時代の負の遺産だね」

 バブル時代の? 訝しむわたしに、補佐はつづけた。
「バブル時代はとにかく皆お金があって、元気な女性たちも多かったろう? 派手な格好をしてディスコに通って、男たちをあごで使うような女性もいた。それを本気で心配したセンセイ方がいたんだな。このままだと、結婚し、子を産み育て、家族に尽くすような保守的な女性が減る一方だ。もっとそういう自覚を促すことはできないんだろうか、と」

 誠順が傍らで、うんうんと頷いている。

「かと言って、女性の社会進出を阻むのも、建前上良くない。男女雇用機会均等法が施行されたばかりだったからね。では、役割を分けてはどうだろうと。将来的に、家庭に入り家族に尽くしたい人。そして、外で働き、活躍したい人。それぞれ心に思ってはいるだろうけど、外からそれがわからないとどうにも不便だ。そこで考えたんだな。前者なら、スカートを穿くだろう。後者なら、ズボンを穿くだろうと。そうして意思表示してくれれば、非常にわかりやすくて好都合だと」

 わたしは、唖然とした。

「アホだよね。アホすぎるよ。ほんっとに」
誠順が苦笑しながら、わたしに言った。
「俺もはじめて聞いたとき、愕然としたよ。本気でそんなこと考えていたのかって。ネットで言われているような陰謀論はちがうだろうって、思ってたけど。でもまさか、こんなクソくだらないことだったとはね」

「酒の席の与太話からはじまった、なんて説もあるよ。さすがにそれはないと思いたいがね。いずれにせよ、実に浅はかな話だ」
カミジョウ補佐はそう言って、首を振った。

 しかしね、と補佐は言った。
「結果として、複筒の女性たちが思惑通りというか、非常に元気に活躍しているんじゃないかと思うんだよ。自由で、これまでにないスケールで。サトウアサミ女史なんて、最たるものさ」
 そしてわたしの方を向いて、持ったコーヒーカップを掲げてみせた。
「華さんだって、そうだよ。大胆な発想で行動をして、その結果ここにいる」

「えっ」
 わたしは戸惑って、カミジョウ補佐と誠順に交互に視線を送った。2人とも、笑って頷いている。

 わたしには、そんなつもりはないのだ。ただ目の前のことに夢中で、思うままにやってきただけだ。それに、家庭を持たずに仕事に邁進しようなんて、そんな決意をした覚えもない。

 モヤモヤしたものを抱えながら、しかし口に出しかねていると、カミジョウ補佐は、ふいに話題を変えた。
「誠順くんは、ご実家に帰ってこいとは言われないのかい」

 誠順は、苦笑いをした。
「帰省のたびに言われますよ。お前いつまで東京で『マルサ』の真似ごとやってるんだ、早く帰ってきて家業継げって」

「家業に関係ないもんねえ、この仕事」

「就職難でしたからね」

 でもね、と一口飲んだマグカップを置いて、誠順はため息まじりに言った。
「耳が痛くもあるんですよ。さっきの、単筒の女性に、家族に尽くすことを期待するって話」

 そして、急にわたしのほうを向いて聞いた。
「華さんは、何か夢とか、これからやりたい仕事とかある?」

 えっ。わたしは、一瞬言葉につまったが、すぐに答えた。

「わたしは、ずっと今のお店を、mer bleueをつづけていきたいです。耀子さんオーナーと一緒に、ずっと」
 本当に、そうだった。わたしには、それ以上の夢なんてないのだった。

 誠順はわたしの言葉に頷いた。
「そうだよね。女性だって皆そんな風に、自分の夢ややりたいことがあって当然なんだ。でもうちに来てくれる人は」

 「うちに来てくれる人」というのが自分の結婚相手を指すのだ、ということはすぐにわかった。

「うちの仕事を、『やりたいこと』にしてもらわないといけない。母親も、そうだった。母親が他に何かやりたいことがあったんだろうかなんて、考えたこともなかったけど……」

「お見合いとか、準備しているんじゃないかね。親御さんも」
カミジョウ補佐が、穏やかに言った。

「そうかもしれませんね。そんな話は今のところないけど」
 それはそれで、と誠順はマグカップを両手にはさんで、半分残ったコーヒーに目を落とした。
「うちの仕事をやりたいと思って来てくれるんだったら、それが縁があるってことなのかもしれませんね。逆にどんなに好きな女でも、夢とか、やりたいことがちがうんだったら、それは縁がないってことなんですよね」

 カミジョウ補佐が、ふむ、と小さくうなった。

 誠順はぱっと顔をあげ、慌てて立ち上がった。
「何話してるんですかね俺。しゃべり過ぎました。仕事に戻りますよ」

 誠順はマグカップを持って、さっさと会議スペースを後にした。


 わたしとこの人は別々の夢を持っていて、この人は同じ夢を持ってくれる人を探している。

 ゆっくりと何度も自分に言い聞かせるように、わたしは心の中でそう唱えた。

 

 女性下衣選択法の、ガイドラインが完成した。
 わたしが協力して作成したいわゆる「叩き台」が、正式な策定委員会で審議・承認され、完成となった。あとは公布を待つばかりだ。

 わたしは結局2か月ほど、装美監理庁に通った。
 最終日には、オオシマさんが可愛らしい箱に入ったマカロンを手渡してくれた。
 わたしはmer bleueの商品のポーチを、彼女にプレゼントした。

 明るくて一生懸命な、いい子だった。こういう女性が楽しく着られるような服をこれからも提供していくんだ、とわたしは思った。彼女のように、オフィスで日々頑張っている女性に会えて、本当によかった。

 担当課の皆さんやカミジョウ補佐とも思ったよりずっと仲良くなれ、離れるのが寂しかった。
 そして誠順には、それ以上の感情を持ってしまっていた。でもそれをどうすることもできないまま、最終日になった。

 最終日、彼はいなかった。いつものように外回りをしていたのだ。

「それは、縁がないってこと」
 彼の言葉を真似てわたしは、自分の心にそう言い聞かせたのだ。


2007年

 装美監理庁を後にしてまもなく、2007年が明けた。慌ただしく楽しい、いつものmer bleueでの日々が戻ってきた。

 わたしは誠順のことを忘れたふりをして、仕事に没頭した。そうすることで、本当に忘れられるだろうと思った。

 ガイドラインの公布は間近だった。そろそろ内容がメディアで報じられるだろうという頃、その出来事は起こった。


 閉店近い時間、耀子さんは既に帰り、わたしはひとりで店番をしていた。
 すると外に、白のばかでかいワンボックスカーが停まった。

 不審に思っていると、すぐにアイボリーのパンツスーツを着た女性と黒いスーツの男2人が降り立ち、あれよあれよという間にドアを開け、mer bleueの店内に入ってきたのだ。

 女性はつかつかとわたしに歩み寄り、名刺を差し出した。
民民党みんみんとう衆議院議員の、サトウアサミと申します」

 名刺は片手で差し出された。会釈すらなかった。その視線には、挑むような鋭さがあった。
 黒いスーツの男2人は、威圧するように入口に並んで、腕を組んでいる。

 戸惑って、あの、と口火を切るわたしを制するように、サトウアサミは言った。
「mer bleueさん。女性下衣選択法ガイドライン策定のお手伝いをなさったそうですね」

 はい、しましたが、と言うわたしに、サトウアサミは顔を数センチ近づけ、まくし立てた。

「下衣選択法は、重大な人権侵害です。わたくしは10代の頃から、政治家になる前から、異を唱えて戦ってまいりました」

 すごい迫力だ。わたしは金縛りのように動けず、ただ彼女の話を聞いた。

「でも正面からぶつかっても、なかなか壁は破れない…… そこであなた方の、脱法コーデが現れました。新たな味方が現れたのかと、心強く思いましたわ。もちろん、法の盲点をつくようなことで、推奨すべき行為ではありません。しかし、こういう手があったのかと。下衣選択法に対する強烈なカウンターと、感銘を受けました」

 サトウアサミはそこまで言ってわたしから目をそらし、大げさにため息をついて首を振った。

「でもあなた方は、いつの間にか政府に懐柔されてしまった。ガイドラインの姑息な内容を見て、絶句しましたわ。私は、女性の権利を守りたいんです…… そう思って活動しているのに、なぜかいつも、同じ女性に足を引っ張られます。昔、スカートの裾を踏まれて前に進めない、なんておっしゃった方がいましたけど。私は、スカートも穿いていないのに踏んずけられて、前に進めませんのよ」


 言いたいことは、山ほどあった。

 ガイドラインは、決して姑息なものじゃない。いや姑息に見えるかもしれないが、最終的に、下衣選択法をなくすためのものなんだ。
 皆、あなたが思うような悪人じゃないんだ。わたしも装美監理庁の人たちも、本当はあなたと同じ目的で頑張っているのだ。

 そもそもあなたは、わたしを覚えていないのか。わたしは、あなたが好きだったんだ。かっこいい人だと、尊敬していたんだ。

 圧倒されて、何ひとつ口に出せなかった。
 せめて、その入口に立った強面の男たちがいなければ、こんなに怯えずに済んだのに。どうしてこんな風に突然押しかけてきて、脅すようなことをするのだ。

「もっと、女性が一枚岩になって戦わなければ。その思いを共有できず、残念ですわ。私は負けません」

 捨て台詞のように言って、サトウアサミは踵を返した。男2人も後について、ドアを開けて店を後にした。

 呆気なくワンボックスカーが立ち去り、わたしはその場にへたり込んだ。


 どのくらい時間が経っただろう。閉店時間が来ても、わたしはへたり込んだまま動けなかった。

 わたしの中の、冷静な声は言う。サトウさんはどうかしている。政府に正当な協力をした一般人に、国会議員でありながら怒鳴り込んでくるなんて。あれこれ気に病んでも仕方がないのだ。すみやかに、装美監理庁に報告すればいい。今日はもう遅い。明日の朝、連絡するのだ。

 でも実際、それでは気持ちがおさまらなかった。突然、横っ面を殴られたようなものなのだ。なぜわたしに対して、そこまで怒りをぶつけるんだろう。そんな憤りもあったし、一方でどうしようもなく情けない気持ちもあった。心がぐちゃぐちゃに乱れていた。

 どうしても、あの人と話がしたかったのだ。

 わたしは立ち上がって、誠順の名刺を取り出した。出会った日にもらったものだ。携帯の番号をプッシュし、呼び出し音を聞く。
 電話は、すぐにつながった。わたしはできるだけ落ち着いて、サトウアサミが突然店に来て、ガイドラインに協力したことを非難された、と伝えた。

 誠順は、えっ、と一瞬絶句した。
「華さん、大丈夫?」
それだけの言葉にわたしは、安心して泣きそうになった。

「今日はちょうど、車で杉並の業者を訪問していたんだ。もう終わっているから、すぐそっちに向かう。どこかでちゃんと話聞かせてよ」

 10分ほどして、誠順はmer bleueに現れた。わたしは店を閉めて、誠順の車に乗り込んだ。幹線道路沿いにファミレスを見つけ、わたしたちは入った。

 わたしは誠順に、サトウアサミが来て何を言われたかを話した。誠順は黙って聞いていた。わたしは、もっと話したくなった。mer bleueのことだけを考えて始めたことがこんな波紋を呼んでいることに、いまだに気持ちが追いつかないこと。サトウさんと自分との、スケールのちがいに圧倒されたこと。ずっとぶれずに下衣選択法に向き合っている彼女に対し、自分が中途半端で恥ずかしくなってしまったこと。だけど、尊敬していた彼女が、こんな風に脅すように怒鳴りこんできたことに、深く失望したこと。

 誠順はひとつひとつ、頷きながら聞いた。わたしがひと通り話し終わると、まったく減らないままのホットティーを示し、飲んだら? とすすめた。

「しかし、ひでえことするよな。いったいどうしたのかな、サトウアサミは。相当頭に血が上ってるな」
 とにかく、装美庁には明日すぐに報告するよ、民民党に抗議を申し入れよう、と誠順は言った。

「正直、わからないんです。彼女の情熱はすごいと思う。でも、どうしてそこまで、純粋に戦いつづけられるんだろうって」

 純粋かな、と誠順は言った。
「俺は、そんなことないと思う。別な目標があるんだよきっと」

 別な目標? 聞き返すわたしに、誠順はふっと笑って答えた。
「日本初の、女性総理」

 わたしは、あっけに取られた。誠順は、専らの評判だよ、と笑った。
「人間、何か欲がないとそこまで頑張れないよ。俺だって、人よりいい仕事してえな、そう評価されたいな、くらいの欲はあるよ。それもあるから頑張れる。でも、総理大臣レベルの欲となるとさ…… もう、計り知れないよね」

 思ってもみないことで、わたしは驚いた。でも、思ってもみないことを考えているのがサトウさんだ。本当にそうなのかもしれない。

「だからさ、華さんが中途半端で恥ずかしいなんて思うことないんだよ。あの人に比べたら、全員中途半端だよ。欲もやることも、スケールがちがいすぎる。ただただすごいエネルギーだな、と思うだけだよ」

 わたしは、頷いた。

「俺から見たら、あなたの方がよほど純粋だよ。いつも店と、服のことしか考えていない」
 誠順はそう言って、わたしを見て楽しそうに笑った。わたしの感情は、ここに来る前とちがう方向に揺れた。店内のオレンジ色の照明があたたかくて、泣きたいような気持ちになる。


「もう遅いし、出ようか」
 送るよ、と誠順は立ち上がった。手早く会計を済ませ店のドアを開け、その背中は駐車場に向かう。

 わたしはやっぱり、この人が好きだ。

 どうか、夢ややりたいことがちがうとか、縁があるとかないとか、そんなことはもう全部忘れて、ただ、わたしのことを愛してくれないだろうか。

 車に向かって歩く誠順の腕をつかんでわたしは、帰りたくないです、と言った。

 なんて、みっともないんだろう。でもこのまま会えなくなって後悔するくらいなら、どんなにみっともなくてもかまわなかった。


〈第4話 了〉

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