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文章を味わうこと

以前、マキタスポーツ氏がラジオでウィスキーのことを「大人の水あめ」と言っていた。
なるほど。うまくいったもんだと感心した。

読書をよくしている最近。

文学とは、文章をゆっくりと味わうものなんだなと思った。

エンタメばっかり読んでいると、筋を追うことに夢中になり、細かいところを読み飛ばすことがよくあった。
その分、夢中になったものは再読することで何度も見落としをさらいなおす楽しみもあったけれど。

この頃、青空文庫やkindleで安く売っている昔の小説を読むことが多く、筋よりも一行ずつを味わっていく読み方があるなあと思った。

書かれた時代的に、きっと読んで味わうスピード感も今と全然違うはず。

ならば先を急ぎ、結論まで早急に走るのでなく、ゆっくりとその文体に身を任せてみようと思ったら俄然面白くなってきた。
マキタスポーツ氏がウィスキーを大人の水あめと言ったように、純文学は水あめのように、じっくりとねぶって名文を味わうのが良いのだと気がついた。

ビールがあれば、干さねばならぬ。

本があれば読み終わらねばならぬ。

元来そんなにせっかちではないはずなのに、ものが満たされていると干さねばならぬと思う精神を持っていた。

だから自然と酒飲むペースや飯を平らげるのもはやくなる。

本の残りを早く読み切ってしまいたい。そんな読み方を卒業するいいころ合いなのかもしれない。

しかし、そう考えられるようになったのは、50に手が届くような年になったからこそなのだろうなと思う。

文章を書くことだって同じである。おそらく、若い頃の成果ばかり早急に求める自分ならば、この硬い岩に少しずつノミを入れて地道に形を彫っていく創作という作業に耐えることができなかったのだろう。
また、今でもペラペラで一反木綿の如き人間の厚みの自分には語るべき言葉など絞り切らねば滴も垂れない。

ほんの数滴ずつの絞り汁を集めて、文字を紡いでいくための根気というか、そういうもんだという確信のようなものが年をとらなければ身につかなかったのだと思う。

そう思うと、昨夜の晩酌の焼酎もゆっくりと飲むことができた。食事中にかみさんにかかってきた電話で再三「稼ぎが悪くて、生活費が足りない」、「金がないから私も働きにでている」と大きな声で言われて途中で変な酔い方をしてしまったのだけれど。

本当は文章を書いている暇も、本を読んでいる余裕もないんだけど。

やっとやろうと思えた執筆という趣味はやっぱり続けていきたいのだ。でも、お金も欲しい。





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