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長めの呟き

昨日5月21日はご開山親鸞聖人のお誕生日、降誕会でございました。5月は全国の真宗寺院で降誕会の法要がお勤まりになっておることと思います。ご開山は、1173年5月21日にお生まれになられました。来年で丁度850年を迎えます。親鸞聖人がお生まれになってくださったからこそ、浄土真宗のご法義が明らかになりました。また、親鸞聖人から私に至るまで、たくさんの先輩方が正しくそのご法義をお伝えくださいました。


私は自坊に兄がおりますから、同じ市内におりながら、去年から自坊を離れて生活をしております。私が住んでおる場所にいらっしゃる如来さまのお給仕をさせてもらう中、最近いたく思わされることがあります。それは本当にようこそ、ようこそ私までご法義をお伝えくださったなあということ。

沢山の先輩方が真面目にお朝事をして、お夕事をして、言葉が適切ではないかも知れませんが、まさに愚直に如来さまに毎朝お仏飯(ご飯)をお供えして、お寺の掃除をして、お給仕を続けてこられた。その毎日の大真面目なお給仕の姿勢が、文字通り800年の時代をかけて、無数のいのちのはたらきの中に、ご法義を伝えてくださった。大変にありがたいことです。


念のために言うておきますが、一遍たりともお供えしたお仏飯が減ったことは無いですよ。恐らく、他人から見たら、ただの木像や絵像になぜ米を供えとるんやと不思議でならんことでしょう。私の甥っ子はしょっちゅうご飯を残しては、「ちゃんと食べろ」と教育を受けておりますが…せめて一回くらい如来さまの口元に米粒がついておったら…なんて思ってみたり。私の行為に対する見返りは全くそこに期待されない、言うてしまえば全く供え甲斐の無い行為ではありませんか。

しかし、先輩方はその全く返ってくることのないことを、大真面目にしてきてくださったんです。毎朝毎朝、お仏飯をお供えしてくださった。そこに見返りを求めない、まことにたいそうな人格であったと、自分が如来さまのお給仕を続けられるようになってから、しみじみと思い知らされます。歴史の重み、伝統の重みを知らされます。ありがたいことです。


降誕会の話に戻します。親鸞聖人は9歳のときに出家なさり、29歳で比叡山を降りて法然聖人の下に行かれましたので、20年間のご修業生活をなさったんですね。たまに、世間の人で「親鸞は修行に負けた」とおっしゃる方がおられるんです。まああまり私も喧嘩はしたくありませんが、吹っかけられたものはとりあえずお答えはしなければなりません。そういうことをおっしゃる方にお伺いしたいのは、20年間ずっと命をかけて続けてきたものをやめる、果たしてその覚悟がありますか。人生の3分の2ほどを修行に費やしておられる、まさに命懸けの生活ですよ。私28年近く生きておりますけど、20年続けたものなんて多分一つもないです。ああ、呼吸は私が生きておる分だけ続けてきましたし、心臓も今日も辛うじて動いておりますが、私の意思でどうこうしているものではありません。恥ずかしながら胸を張れるものは一つもありません。

そんな私が親鸞聖人の心情を察するなど烏滸がましいことでございますが、恐らく相当な覚悟でもって比叡山を降りられたと思いますよ。当然20年間のプライドもあったでしょう。なぜそういう決断をなさったのか、私たちは考えねばなりませんね。


仏教の大きな目的は成仏と言っていいでしょう。人はなぜ生まれ、老いて、病んで、死んでいかねばならないのか。なぜ愛するものと別れ、憎しみ合う相手と顔を合わせていかねばならないのか。求めるものは手に入らず、私だけが特別でない…

全てのものに平等に起こるその事実に、なぜ心を掻きむしられるほどの苦しみを感じねばならないのか。それは、思い通りにならないものを思い通りにしようとするこの心、この煩悩に依るんだと、今から2500年ほど前にインドでお生まれになったお釈迦さまは明らかにしてくださいました。その自らへの執われから完全に解放された境地、自分の煩悩を完全にコントロールしているお方を、仏様とお呼びします。仏教とはその境地を目指す宗教です。ひたすらに自身を見つめていく宗教、外側についておるこの目を、自分へと、内側へと向けていくのが仏教なんですね。そのために、お釈迦さまが定めてくださった戒律を保ち、正しい禅定を通して、智慧を深めていく。親鸞聖人も比叡山でそういうご修行をなさってこられたわけです。


ところが親鸞聖人は修行をすればするほど、智慧が深まれば深まるほど、返って自らの煩悩の深さを知ることになったのでしょう。どれほど修行を通しても、生死に対する執着が生まれ、愛憎が心に入り乱れている。さとりの境地に手を伸ばせば伸ばすほと、かえって遠ざかっていくわけです。20年の修行の中に計り知れないほどの葛藤がそこにあったんだろうと拝察いたします。


そんな中で法然聖人のご法義とお出遇いをされました。それは凡夫は凡夫のままに救われていくというご法義でした。修行を通していずれは仏になる、仏様の境地とは私が手を伸ばせば届くような境地ではない。私の方には全く仏となる真実などこれっぽっちもないというわけです。


有名な例えに鉄と磁石の例えがあります。釘はいろんな釘がありますね。綺麗な造られたばかりのものもあれば、歳月を経て茶色く錆びたものもある。曲がったものもあれば折れたものもある。釘としての用法だけで考えれば、当然綺麗なピカピカの釘が役に立つわけでありますが、綺麗な釘も、どれだけ頑張っても磁石には決して成れません。綺麗でいても、錆びていても、曲がっておっても、折れていても、釘は釘のままです。しかし、ひとたび磁石に吸い寄せられると、その釘が他の釘をくっつけるように、釘は磁石の働きをなします。錆びていても、曲がっていても、釘は磁石によって磁石の働きをするようになるんですね。

凡夫はどう頑張っても凡夫でしかないということです。そんな凡夫の私のために、如来さまは「まかせよ、必ず救う」と私の声のお念仏となることを選んでくださいました。私の喉をふるわし、私の耳に聞こえるお念仏。「そのままこいよ、お前の姿は問いません、必ず浄土へ迎えとる」というお心のお喚び声です。善人は善人のままに、悪人は悪人のままに、そのまま救われていくんです。


あらゆるいのち、全てのいのちが等しく救われていくその道を法然聖人から教わり、また私に至るまで沢山のお書物でもってさらにそれを展開なさった親鸞聖人。そのまま救うのご法義を聞いて、どのように生きていくかは私たちひとりひとりの問題です。どうぞ、如来さまとご相談の中に、お念仏の中に、生活をしていきましょう。


本日は降誕会にあたって、木山がぶつぶつと呟きました。ようこそでした。ナンマンダブ

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