見出し画像

本願カルタ🎴

皆様、こんばんは。
今週は隂山です。
朝晩が涼しくなってまいりましたが、日中は暑さが残りますね。
暑がり汗かきの私の寝間着は、Tシャツに短パンです。
更に寝る時は窓開けっ放し。
すると、夜中に「寒っ!」と起きてしまう。
そんな日を繰り返しております。
その内、風邪ひくでしょうね。


先日、行信教校の図書館で本を物色していたら、ある本を見つけました。
『煩悩カルタ 本願カルタ』雪山隆弘著
「おっ、おもしろそう!」
著者の雪山さんというのは、行信教校と縁の深い利井家のご出身で、癌により 1990 年に50 歳でご往生されました。
その闘病中も積極的に法話や講演をなさっていたようです。
私は直接お会いしたことはもちろんありませんが、その当時ご法話されている動画をYouTube で拝見しました。
ジャーナリストやラジオパーソナリティ等もされていたそうで、話は軽快でおもしろく、温かくて有難いご法話に、非常に惹きつけられました。

この『煩悩カルタ 本願カルタ』がいったいどんな本かというと、
いろはカルタのような作りになっており、例えば、
「憍慢(きょうまん)」という煩悩については、
「いちばんよい子はこの私」と短い言葉で表現され、
それについて少し説明してくださっているという形です。
煩悩と本願で47首ずつ収められています。


本文を読み始めて行くと、やっぱり面白い。
「前書き」にはこのようにあります。

この「煩悩カルタ」を読んで、思い当れば、ハイとうなずいて、慚愧(自分にも他の人にも恥じること)のこころを起こしましょう。当たりすぎて、気分が悪くなった方は、後編の「本願カルタ」を読んで、ホッとして下さい。

クスっと笑いながら、あっという間に「おわりに」まで辿り着きました。
その「おわりに」はお兄さんである利井明弘先生が書かれていたのですが、そこには、

弟は著者の前書に、「ハイとうなづいて慚愧のこころを起こし、当たりすぎて気分が悪くなった方は…」と書いてある。しかし私は始めに書いた通り少しも気分が悪くなっていないし、それどころか面白いと思ったのである。ということは少しも自分のこととして読んでいなかったということになる。

あっ、明弘先生、それ私です。すいません…笑。
すいません。と言いながら、まだ内心笑ってます。
全然自分のこととして聞けてない私です。
聞けてないながらも、明弘先生の自身を省みられる姿に、私も少し自身を省みさせられました。
そして、明弘先生の言葉は続きます。

あまりにも本当のことは、他人の話か、一般論であるとした方が楽なのである。そして、ハッハッと笑う。カルタという形式に目をつけた弟の真意は何だろう。(中略)多人数を相手にし、おまけにゲームにもなるとすれば、これほど一般論として軽く読める文章はない。当然気分も悪くなることがないから、ホッするはずもないのである。では著者の前書にある意図は空論なのか。

と、雪山さんのお心に思いを巡らされる訳です。
すごいです、この御兄弟…
そして、雪山さんの意図するところと重なる部分があると思うと、親鸞聖人の書かれた『ご和讃』の話を始められます。

今は亡き宮崎円遵和上が、この『ご和讃』は宗祖があの時代の田植え歌として造られたものであろうと話されていたことを記憶している。
田植えの時に一々気分を悪くしたり悩んでいたら仕事になるはずがない。
そして、ご歴代で一番多くお手紙を出された蓮如上人がこの『ご和讃』に節までつけて朝夕お勤めにするようにして下さったのは、単なる偶然だろうか。
日常のリズムの中に仏教が生きていることが大切なことを、このことは示している。
求めて仏教を聞き、教義を理解し研修を積み、ということも大切かも知れないが、それよりも更に大切なのはごく当たり前の毎日の生活の中で仏さまの言葉が聞けるということだと思う。
檀家の九十になるお婆さんが、日曜学校でならったという“念仏数え歌”を死ぬまで歌っていた。
他人事と聞けるうちに仏教に親しむことが大切である。
人生には必ずそれが自分のことであったと気ずかされる時がくるからである。
この時にこのカルタのように、仏さまのどの言葉に依っているかを示してあることも大切なことである。味わいはそれぞれの人格を通しているが、その元の仏さまの言葉が一番肝要なのだから。
「ほめられて我賢しと思うなよ、まことに誉めるひとは少なし」と、本書に引用してある言葉は、我々兄弟が小学生の時、祖母から繰り返し聞いた言葉である。
あの時はまた言っているぐらいにしか受け止めていなかったのに、四十年経った今、弟が覚えているところを見ると、弟の人生にもこの言葉を自分のこととして受け止めずにはおられない何かがあったに違いない。
自分のこととして受け止められた時は、既に「本願カルタ」の世界に包まれている自分が喜べるのではないだろうか。

そうなんだろうなと思います。
以前の記事にも書きましたが、幼い私は母から、
「念仏頂いて生きさせて頂いたもんは皆お浄土往かせもらうねん。」と聞きました。
祖母からは、
「まんまんちゃんあん、しいや」と聞きました。
その言葉は当時の私には、「へー」ぐらいのことです。よく分からなかった。
でも、今その言葉がじんわりと自分のこととして沁みこんできていたことを実感させられています。

お念仏も何の意味があるのか全然分かりませんでした。
成長し、「仏願の生起本末」を聞かせて頂きました。
「仏願の生起本末」とは、阿弥陀さんの願いがどのようにして起こって(仏願の生起)、今どうなっているか(仏願の本末)ということです。
つまり、阿弥陀さんという仏様は、ずっとずっと遙か昔から迷い続けていた私を、必ずお前を浄土に往生させ仏とならせると誓い、お念仏となって今私の所に至り届いているということです。

意味が分かりませんね。
私は37年前にこの世に誕生したのであって、それより前の話をされても私の知れるところではありません。
迷い続けてるって、そりゃ時には迷うこともあるけど、迷い続けてはないですよ。
しかし、そういうことではないんですね。
私には全く分からないのです。
それでも聞かせて頂いたそのお言葉は、確実に私の中に沁みこんできているんでしょう。
今の私には、よく分からん、無意味やと思ってしまっても、よく分からんことをよく分からんまま聞いて、お念仏の日暮しをさせて頂きます。
そんな中で、あーそうやったなーと阿弥陀さんの言葉を、自分の事として受け止めていけるようになるんでしょうね。
その日暮らしが私を成長させてくださいます。
聞かせて頂いておくことは大事ですね。

引用ばかりの記事になってしまいましたが、この言葉を皆さんと共有したいと思って書かせて頂きました。
 
称名

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?