忙しさにかまけて。
半袖の人を見ることも少なくないような季節になりました。
今週は、佐々木です。私は福岡の中でも、大分県中津市に近い場所に生まれたのですが、そこに「しゃーしい」という方言があります。
うちの祖母や母がよく使っておりました。
私の世代の人はあまり使わなかったイメージがあります。
何かにつけて「あーしゃーしいなぁーもう」
「これやってよ」「いやしゃーしいよ今は」
僕が騒いでると「しゃーしいっちゃもう」。
おおよそ、「うるさい」「面倒」「煩わしい」という意味で使われます。
この言葉の語源が、おそらく「せわしい」だそうです。
忙しい。ですね。
忙しい、という所から、今は忙しく大変だから、面倒だ、煩わしい、という意味になったのかなと想像します。
忙しいことは、面倒なことでもあるんですね。
最近、目の前のことに精一杯で、ふとした時に、忙しさについて考えます。
現代は、便利になりました。文明は豊かになりました。
文通じゃなくとも連絡が取れる。移動時間も短くなった。
しかし、時間が空くようになった分、暇な時間になるかというとそうではありません。
その分の活動時間が生まれました。
ある布教使の先生が言ってました。
「アメリカまで日帰りで行ける時代が来ると思うよ、そしたら、便利やと思うでしょ。
違いますよ。その分忙しくなるんですよ。人間は暇な時間が苦手なんですかね。」
時間が生まれても、その時間が自分の豊かさに繋がらないなら、それは便利というより、人間を蝕むものかもしれません。
忙しさの中に、大事なものも時に見失うこともあります。
心が一杯で視野が狭い時、優しい言葉さえ無下にすることがあります。
自分を忘れる時さえありますが、
生、老、病、死の、真ん中にいること、
命を賭けた人生の、今まさにど真ん中にいるという事実は変わりません。
命の意味を聞けるか、向かうべき方向を聞けるか。
その私に、心を落ち着けて視野を広げて、悟りなさいとは言わないのが、阿弥陀様の特徴です。
お念仏とは、「お前を決して忘れてないよ」という、仏様の仰せです。
この世を上手く渡る処世術ではありません。
救いそのものが、お念仏です。
浄土真宗の救いは、私が世界の全てを理解していくことではありません。
私が、理解されていることを、聞いていく教えです。
私には、理解できないほど大きなものが関わっていることを聞いていく教えです。
利他の限りを尽くして私に関わる存在をよろこべるおみのりです。
多分、仏様方は忙しいです。
煩悩に苛まれ、目の前のことにかまける私がいる限り、その仕事は止みません。
そこに悲しみがある限り、
思い通りにならない苦が無くならない限り、
仏、菩薩の活動は止みません。
その、よろこびの中の忙しさを、我々も成仏すれば経験します。
そう、考えると、忙しい中にも、充実してる忙しさと、充実してない忙しさがあるように思います。
時間が無いことがそのまま忙しい、のではなくて、そこに意味が与えられないことが、忙しく、虚しいのでしょう。
「正信偈」にも出てきますが、
「煩悩の林に遊ぶが如く」仏は衆生を救う、という表現がなされます。
そのことが大事で、他のことには目もいかず、夢中になるが如く、命にはたらくのが、仏様だ、という意味でしょう。
何があってもお前を忘れないよ、
見捨てられない仏になったよ、
お念仏申し、その命の意味を聞いてくれよ。
はたらき通しであっても、
そこに虚しさが無い。
それこそ、本当の豊かさ、仕合わせ、というものでしょう。
私の忙しさに目をやるよりほかに無い時もありますが、
それと同時に、
如来の充実した忙しさにも目がいくような、それを尊いものと仰ぎます。
合掌
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