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生きている

皆様、こんばんは。
陰山です。
 
娘は、息子(兄)が生まれた時に頂いたブランケットのおまけのぬいぐるみ、熊のウアちゃんを大切にしています。
 
夜はベッドで一緒におやすみ、朝は一緒に起きおはよう、一緒に朝ご飯を食べ、小学校に行く時にはリビングでブランケットを掛けて寝かして、「ウアちゃん、いってきます!」と家を出ていきます。

洋裁が得意なばあばに頼んで、ウアちゃん専用の服まで作ってもらっています。
先日は、ウアちゃんと手を繋いで「アハハハ」と笑いながらクルクルと回っていました。
昔のドラマで出てきそうな海辺のカップルのように。

娘のかわいさ自慢をしたい訳じゃないですが、かわいいでしょ笑
我が家の可愛い娘に限った話ではなく、幼い子供には、珍しい光景ではないかも知れませんね。
 
さて、その娘、私がウアちゃんを雑に扱えば、すごい顔で怒ります。
私からすれば布に綿が詰め込まれている、ただの1体のぬいぐるみですが、娘からすればぬいぐるみではなく、ウアちゃんという1人の友達ですから、当然です。
私は濁ったものの見方をしているんだろうなと感じますが、かつては私もそんな子供でありました。
 
今、私の目には、体が動き心が動き思考する、そんな状態が「生きている」と映ります。
仏様は、私の目には見えませんし、私の考える「生きている」という理屈では、仏様は「生きている」カテゴリーには入りません。

一方、仏教徒はずっと仏様を「生きている」存在として尊崇してきました。
 
お仏飯をお供えし、手を合わせお念仏をしお経典を読む。
祖母も母も、毎日毎日そうしていました。
 
お人形に生命を見る感性を、大人になるといつしか忘れてしまいます。
良識とか常識とか、社会生活を営む上で、他者との共通認識を重ねていくと、致し方ない成長でもありましょう。

仏様を「生きている」存在として心に認める行為は、大人になった私が大切に残した純粋さなのかも知れません。と、今なら思います。
 
『阿弥陀経』では何度も「舎利弗よ」とお釈迦様がお弟子の名前を呼ばれますが、その「舎利弗」の部分には自分の名前を入れて読むんだよ。と先生に教えて頂きました。
ただの文字を読んでいるのではなく、今この私がお釈迦様のご説法の会座に座って、お御法を聞かせて頂いているんだということです。
 
その『阿弥陀経』の初めには

「これより西方に十万億仏土を過ぎて世界有り、名づけて極楽という。その土に仏有す、阿弥陀と号す。今現に在して法を説きたまふ。」

『仏説阿弥陀経』

とお説きくださっています。
 
西にお浄土があるということは象徴としておっしゃっられているんだ、という方もいらっしゃいます。
もちろん間違っていないことです。
でも、『阿弥陀経』のお言葉を聞き、西に沈んでいく夕日を見ながら、お浄土を思い、懐かしい方を思い、私もお浄土に生まれさせて頂くんだと、私のいのちの方向を思わせて頂くと、象徴としてだけでなく、そこにお浄土が生きておはたらきくださっています。
 
木山さんがよくおっしゃってくださる
「如来様が私のいのちにご一緒くださいます」
という言葉が思い出されます。
 
先の、祖母や母の日々の姿が、
「仏様はただの偶像じゃないんやよ、妄想じゃないんやよ、今ここに私と共に生きてくださっているんやよ。」
と教えてくれているように、今になって感じます。
ずっとずっとお育ての中でした。
 
今この私のいのちの上に、生きておはたらきくださっています仏様でありました。

なんまんだぶ

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