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ヴィパッサナ瞑想の基本 その1

 以下は1995年7月に来日されたミャンマーの高僧ウ・ジャナカ・セヤドーのお話です。日本でまだヴィパッサナ瞑想がほとんど知られていない頃におこなわれた、ごく基本的なレクチャーなのですが、その内容があまりにもわかりやすくためになるので、ぜひみなさんにもシェアできればと思いました。コロナ・ウイルスによる自粛が続く中、瞑想に取り組んでいる方の参考になればさいわいです。ウ・ジャナカ・セヤドーは1928年英領ビルマのビンマ村で生まれ、15歳のときに沙弥として仏教の勉強をスタートしました。現在91歳にしてご健在のようです。

ヴィパッサナとはなにか?

 まず最初に、ヴィパッサナ瞑想の実際的な面についてお話しいたしましょう。その後、私の指示に従って、瞑想の実践に移っていただきます。

 ご存知のように、仏教の瞑想には2つのタイプがあります。ひとつはサマタ瞑想、もうひとつが今みなさんがおやりになるヴィパッサナ瞑想といわれるものです。 

 サマタ瞑想のサマタとは、集中ということです。サマタ瞑想では、ディヤーナdhyanaと言われる高い次元の意識の集中ということを学んでいきます。

 ヴィパッサナというのは洞察という意味です。心とからだの働きの3つの特色を見ていきます。ヴィパッサナというのは、自分の内側を見て、心とからだ、心と対象の関係を貫き通して、見通すということです。

 ヴィパッサナとは複合名詞です。viは無常・苦・無我という三つのことをあらわします。passanaとは正しく理解することです。このふたつの言葉がつながりますと、「無常・苦・無我という言葉のほんとうの意味を理解すること」、ということになります。

永遠に続くものはない

 ここで無常というのはどういうことかというと、心の中にいろんな事象がおこり、また消え去っていく、ということです。心の動きというのは瞬間的におこって、また瞬間的に消え去っていくものです。だから無常といいます。肉体的な感覚というものもおこってはすぐに消えていくものですから、これも無常です。

 わたしたちはふだんは無常というものを実感することはありません。この肉体的精神的な無常は、考えたり哲学的に理論づけようとしてもできません。実践が必要なのです。そのためには実際にわたしたちの心や身体になにが起こるかということをしっかり把握し意識することから始まります。心や身体に起こる現象は、それが起こった瞬間に、全力を傾倒して認識することが大切です。

 心の状態はパーリ語でナーマnamaと言われます。肉体的なプロセスはルーパrupaと呼ばれます。ですからこの法話においてナーマおよびルーパという言葉が出てきましたら、精神的な状態、肉体的なプロセスを意味すると理解していただきたいと思います。

 心の状態は永遠なものではありません。それは起こると同時に消え去っていきます。肉体的なプロセスも永遠ではありません。それも起こると同時に消え去っていきます。それゆえに無常ということは、心と身体の三つのプロセスのひとつであると言うことができます。

苦しみという性質

 二番目の特徴はドゥッカ。苦しみです。これには3種類あります。ひとつめはドゥッカ・ドゥッカ、苦痛などいわゆる一般的な苦しみです。ふたつめはヴィパリナーマ・ドゥッカ、変化ということから生じる苦です。幸福ということを考えてみてください。ひとは幸福な気持ちになっても、その幸福は長続きしません。幸福な気持ちが起こったと思ったら、苦しみに変わっています。ですからお釈迦様はヴィパリナーマ・ドゥッカは変化によって生じる苦しみとおっしゃっています。三つ目はサンカーラ・ドゥッカ、精神的肉体的な現象が起こっては消えることです。このように苦とは三つの苦を意味します。

 お釈迦様は無常なるものは苦であるとおっしゃいました。すべての現象は無常であり、あらわれては消えていくものです。それゆえに、苦です。

それは私ではない

 三番目の特徴は無我です。心の状態というのは自分ではなく、我ではなく、魂でもないということです。なぜならそれは無常だからです。身体的な現象も自分ではなく、我でもなく、人格を持ったものでもありません。それゆえにこれも無常であり、苦です。それゆえにお釈迦様は、こういう精神的肉体的なプロセスは魂でもなく、人格でもなく、ひとつの存在でもない、と言いました。

 これら三つの特徴を、パーリ語で覚えていただきたいと思います。無常はアニッチャー、苦はドゥッカ、無我はアナタです。これら三つは哲学的に定理をしようと思ってもできるものではありません。ヴィパッサナ瞑想を行って会得する、体験する以外に方法はございません。それゆえにヴィパッサナ瞑想は洞察の瞑想と呼ばれるのです。この心と身体の三つの特徴を体得した瞑想者はヴィパッサニアーナと呼ばれます。

ありのままに気づくこと

 心と身体への洞察を得るためには、瞑想する者は心と身体になにが起ころうと、それに気づいていなければなりません。ヴィパッサナ瞑想あるいは洞察の瞑想の目的は、これら三つの特徴をはっきりと認識し理解することです。言い換えますと、マインドフルネスの瞑想と言うこともできるのです。

 ヴィパッサナ瞑想でもっとも大事なことは、身体と心に起こってくることをありのままに気づく、認識するということ。別の言葉で言いますと、わたしたちの身体と心に起こってくることはどんなことでも、注意深く観察し監視することが必要です。心の状態でも身体のプロセスでも、起こってくる一番大切に思われるようなことがヴィパッサナ瞑想の対象になります。ですから実践するにあたっては、身体と心に起こるどんなことについても、マインドフルである必要があります。


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