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ヴィパッサナ瞑想体験記その3

2日目

 朝。となりのおじさんのいびきで目が覚める。時計を見ると4時10分前。目覚まし時計は必要ないようである。起床のゴングが鳴る前に、洗顔をすます。山の水はさすがに冷たいが、なぜかそれほど不快ではない。

 このへんで今回、10日間のコースに参加した理由を書いておきたい。ぼくがヴィパッサナ瞑想のことを知ったのは、大学時代に友だちの部屋で読んだ雑誌「アーガマ」の記事だったと思う。大学の印度哲学の教室にいてパーリ語も習っていたのだから、もちろん初期仏教、上座仏教についての知識はあったし、現在もスリランカやタイ、ミャンマーでその頃の教えに近い仏教が信仰されていることは知っていた。だが上座仏教の瞑想が現代のアメリカで、広くおこなわれているとは知らなかった。

 記事を書いたのは吉福伸逸さん。すでにマハシ・セヤドーやアーチャン・チャーという名前も出ている。東南アジアの仏教は「小乗仏教」とイコールとされ、まだ一段低いものと見られていた80年代に、きちんと上座仏教を紹介していたのにはちょっとびっくりする。

 とはいえそのときは、ヴィパッサナ瞑想という言葉を知っただけ。ぼくがこういう合宿とか体験的セラピーに参加するようになったのは90年代はじめくらいのことだろうか。最初が春秋社にいた岡野守也さんのトランスパーソナル・ワークショップで、これはダイナミック・メディテーションや座禅など、ごく初歩的な講座だった。

 これをきっかけに高野山奥の院でおこなわれたスタニスラフ・グロフのホロトロピック・ブレスワーク(C+F研究所主催)に参加(参加者にはジャーナリストの立花隆さんもいた。NHKの取材だった)。伊豆の観音温泉でおこなわれた吉福伸逸さんのワークショップに遅れて参加したのは93年の夏。そのあと、岡山の吉福さんの実家でロングインタビュー。C+F研究所の「セラピー塾」の半年のコースに参加したのは94年の春だったか。そういえばマックス・シュバックの「プロセス指向心理学」のワークショップにも参加したことがある。

 とはいえその多くは、取材して仏教雑誌「ナーム」「大法輪」などに記事を書くと言うのが前提だった。これは取材なんだという自分やまわりにたいする言い訳ができた。

 しかし今回は違う。記事を書く予定はなく、純粋にこの瞑想法に興味があった。この瞑想で、少しは自分も変われるんじゃないかという期待があったのだ。10日間もあれば、なにかあるんじゃないか、ダメな自分でもなにか答えは見つかるだろう。そんなあわい期待が胸の中にあった。だから意識の上では今までの取材とはずいぶん差があったのである。

左右の鼻の穴を意識する。

 朝4時30分からの瞑想のため、ホールへ。昨晩言われたとおり、上唇を底辺とする三角形のなかで、吸う息吐く息を感じてみる。空気が鼻の穴を通るとき、なんだか鼻の頭が冷たいような感じがする。それと鼻の下にも空気が触れるのを感じる。やってみるとけっこう面白い。しかしまだ日も上がらないうちから数十人の大人が黙ってスーハースーハーやっている光景というのは、はたから見たらヘンな光景だろう。

 9時からはグループ瞑想だ。空気が左右のどちらの穴から出入りしているのか観察しなさいと言われる。ちなみにこのように瞑想上の注意を与えるのも、全部テープの声。

 左右のどっちの穴かなんて分かるのか。そう思ってやってみると、これが分かるのだ。ぼくの場合は両方の穴が通っていると言うことはなく、たいて右か左かの穴から空気が出入りしていた。注意しているとそのうち、吸う息は冷たく、吐く息は少し暖かいのが分かってきた。

 こうしているあいだもみんなは足を組んで座っているのだが、とにかく足が痛い。どうしようもなく痛い。もともと座禅でも30分も座っていられないのだ。何度も足を組み替えたり、足を伸ばしてもんだりしてしまう。見回してみると、そういう弱虫はあまりいないように見える。先生の真ん前に座った長い髪を束ねた男性は、一時間でも二時間でもぴくりともしないで座っている。信じられない。

 あ、ひとり仲間がいた。例のおじさんである。おじさんはぼくのすぐ右に座っていたのだが、何度も足を伸ばしたり、いろいろ動いていて、ついには後ろの壁に背中をつけて、足を伸ばして座るようになってしまった。

 ところで瞑想がうまくいっているかどうか確かめるために、一日に一回、生徒が二人か三人づつ呼ばれて前に出て先生と一緒に瞑想すると言う時間がある。不思議なことに、そのときはひとりで瞑想しているときに比べて呼吸がずっと深く遅くなり、瞑想にうまく入っていけるような気がするのだ。やっぱり先生の意識状態に影響されているのだろうか。

食べることに意識を集中。

 昼食は午前11時から。今日はゆですぎでほとんど一体となってしまったスパゲティ。茄子の入ったトマトソースで食べる。これが意外とおいしいので、つい食べ過ぎてしまう。

 ところで呼吸に意識を集める何てことをやっていると、自然と日常の動作にも意識を集中するようになる。一挙手一投足に気を使うようになるのだ。当然食事の時も、ふだんの食べ方とは変わってくる。ちゃんと正座して、おじぎをして、器を手で持って、ゆっくりと箸を動かす。食べ物を噛むのも、「今、噛んでいる」ということを意識していると自然とゆっくりになる。すると、食べ物の味が良く分かるようになる。ふだんは早飯のそぼくにとっては、これは新鮮だった。

 あ、と思った。

 これは禅寺における食事と同じだ。禅寺ではたくあんを食べるときも、音を立てるなという。そんなの無理だと思っていたのだが、自分がたくあんを噛んでいるということに気づきつつ食べると、たいして音はでないのだ。ただ禅寺では強制するように、音を立ててはいけないという。内面から、自然とそうなるのとはえらい違いである。仏教が形骸化するというのは、こういうことかと思ってしまった。

 食べ物を器に盛るとき、食器を洗うときも一緒。気づきつつおこなうと、自然と適量を取るようになるし、洗剤だって極力使わないようになる。自分にも自然にも都合がよいようなカタチに、当たり前のようになっていく。ディープエコロジーってこういうことだろうな、と思う。

 廊下を歩くとき、一歩一歩を気をつけるようになる。今までいかに自分が無意識に、がさつに行動していたかが分かってくる。

 しかし……。ここから問題が起こる。

 自分が自分のあり方に気をつけるようになってくるということは、凄く敏感になってきているということ。すると、どうしても他人の挙動にも敏感になってしまうのだ。そして、他人が自分のように振る舞っていないと、気にさわるようになる。

 ぼくにとってその対象は、隣の部屋のおじさんだった。

(続く)


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