So What?

  新宿のディスクユニオンで見つけた。マイルスデイヴィスのカーネギーホールで演じたSo Whatのレコード。
 篠山啓鉄はこの真っ赤なジャケットのレコードを手にとって視聴台のプレイヤーへと向かった。途中、レコードに特有の古臭い匂いがして、彼は懐かしい小説のことを思った。匂いは記憶ともっとも強く結びつき、同じ香水というだけで、東西線でたまたま隣に乗り合わせた女は以前の恋人とほとんど同じ強さを持つ。
 「So Whatか。そんなのうちにあったんだな」
チェーン店の店員らしくない貫禄を持った髭面の若い男が篠山啓鉄の背中に声をかけた。
「見つけちゃいました」
彼はヘッドホンをかけながら少し笑って答える。店員も、嬉しそうにふふっと笑ってレジに戻って読書に戻り、ちらりと顔を上げ彼の方をもう一度だけ心配そうに眺めた。左手に包帯を巻いていて、本のページをめくりづらそうにしている。その白の包帯は色とりどりのジャケットに囲まれた店内でも一際目を引いて、彼の読書姿はそれ自体レコードのジャケットみたいに見えた。
 それから彼はそのレコードを購入し、急いで店を出た。マイルスの不安定なリズムがそうさせたのだろう、マイルスのトランペットは時々人の心を孤独にし、そしてその足を早める。男はそういう時水を飲んで落ち着き、女は甘めのコーヒーを飲む。

 篠山啓鉄は新宿駅からいくつかの電車を乗り継いで、井の頭公園のすぐそばにある自宅へと帰った。途中、いくつかの果物を混ぜ一番最後に桃の香りを足したような香水をかぎ、彼はやはりまた以前の恋人のことを思っただろう。彼は慌てたように買ったばかりのレコードの袋を見つめ、不審がられないようにその匂いをかいだ。
 ふう、と一息つくと電車は駅に到着しており、彼はそこで降りた。
 乾いた秋の始まりのような風が彼の背中を押していた。

 私も、その駅で降りた。私のどぎつすぎる香水の香りは風に乗って彼のところまで届いただろう。
 彼は私に気づくことはないかもしれない。彼がもう一度私を愛することはないかもしれない。

 だけど、それがどうしたっていうの?

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