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父さん、ありがとう


【 1981 / 喫茶アミー2階にて 】

こんにちは。私佐藤嘉洋は名古屋市西区生まれです。小学校に上がるまでは北区との狭間の「西ハサバ」という元城下町の地域に住んでおりました。

父・憲治はそのメインストリートに喫茶アミーを構え、51年営業し続けました。2022年末にアミーは閉店し、父はのんびりと隠居生活を送ることになりました。

連れて行きたかった焼肉も一緒に食べました。父は油付きホルモンが一番美味いと言っていました。

野蛮な父に発狂する母

昔、北区の楠にあった焼肉屋に営業終わりにたまに連れて行かれました。馴染みの女性店員から「僕、眠くない?」とよく聞かれたのを覚えています。眠気に勝てずに寝てしまったこともありましたが、私はそこのカルビとクッパが好きでした。ホルモンは噛みきれませんでしたが、味は好きでした。内臓系を食べない偏食の母は信じられないという顔をしますが、憲治は、

「こういうのが一番美味いんだがね」

とガツガツ食べました。私は食べるのが遅かったので、自分の分の肉を父に食べられて腹を立てたこともありました。野蛮な父にそのうち母が発狂して、それぞれ己の陣地を作る方式になりました。

「こっから入らんといて!」

いわゆる茶道で扇子が前に置いてある結界の状態です。

「ホルモン以外は半生でいいんだわ」
「私はよく焼きたいの。放っといてよ!」

という夫婦漫才を幼い頃から見てきました。

通りを挟んだ北区側の駒止市場

西ハサバの店から通りを挟んだ名古屋市北区に駒止市場(こまどめいちば)という昔ながらの市場がありました。そこで店を営む人たちもまた常連でした。

母は出前の引き上げついでに、西区側のあかつき保育園にいた私を自転車でピックアップし、北区側の駒止市場に戻ります。そして常連客がコーヒーを飲み終えるまで私は市場に居座ることになります。

まず母は、お好み焼き屋に入って私を客席に座らせます。店の女主人はパチプロとして近所で名を馳せ、私もよく連れて行かれました。店の混雑時にはなぜか私の母がお好み焼き屋を手伝っていたり、市場は第二の家庭のような不思議な空間でした。

私は非常に落ち着きのない子だったので、じきにふらふらと店の外へと出ていきます。

「よし、あんまり遠くへ行くんじゃないよ」

と母親は煙草を吸って一服していました。自由を得た私は市場を闊歩します。魚屋でウナギを捌くのを見るのが好きでした。彼らの生命力を目の当たりにし、ウナギを食べたら元気が出ると幼心に確信しました。医食同源です。毎日命をいただいて自分は生きています。

考えると頭が良くなる

北海道の中学を卒業して、決まっていた高校を蹴って名古屋に来た父・憲治。私は父と常連客との話を聞くのも好きでした。煙草を持ちながら持論を述べたり、相談に受け答えする蝶ネクタイ姿の父は凛々しく見えました。

中学のとき、万引きで捕まったことがあります。学校に迎えに来た父親が扉を開けると、深々と先生に一礼しました。そしてそのまま私の方へと向かってきて、私を殴りつけました。「盗みをするようなヤツに育てた覚えはない」と泣きながら。当時、父に涙はないと思っていたので私は大変ショックを受けました。親をこんな風に悲しませてはダメだと深く反省しました。

高校のとき、プロキックボクサーになりたいなら大学へ行けと言うので、キックボクシングで培った集中力を活かし、ゲーム感覚で勉強を頑張りました。勉強して考えると頭が良くなるので練習の効率も良くなりました。また、多くの人は肩書きで人を見ます。だから格闘家が大学を卒業しているというだけで一目置いてもらえます。それだけの努力と忍耐はしたという証だからです。

何もしない見守る強さ

大学生のとき、キックボクシング日本ランキング戦で肘打ちを食らって4針を縫う裂傷を負ったことがあります。試合は逆転でKO勝ちしたのですが、後日傷だらけの私を見た父は「もう辞めたら?」と勧めてきました。

「大丈夫、絶対にやめんよ」

と笑って返しました。それから私が引退を決めるまで父は二度と言ってきませんでした。

私はキックボクサーとしては生涯現役のつもりです。だからプロ最後の試合一週間後にはジムに顔を出して軽くトレーニングしました。運動できる場所は大切です。

父には引退の報告を電話で伝えました。「おう、そうか。お疲れさん!」とだけ言われました。その足で名古屋市北区の名古屋JKファクトリーへと向かい、いつものように一礼してジムに入ると、恩師の小森会長が、

「おう、さっき親父さんが来たぞ」
「え、そうなんですか」
「おう、『息子が長い間お世話になりました』って深々と頭を下げてくれたよ。すぐに帰ったけどな」

ジム帰りに、父親のいるアミーに寄ってプリンとアイスオレを頼みました。


「父さん、ジムに行って会長に挨拶してくれたんだって。わざわざありがとう」
「会長はお前の育ての親だからな。俺は何にもしてやれんかったで。店があるですぐ帰ったけど最後くらいな」

死は悪ではない

2024年6月初旬、「お父さん、さっき救急車で運ばれて白血病だって。今日明日にも急変するかもしれないって。どうしよう」と母親から連絡があったので、私は辞書の旅と書道を済ませてから急いで名古屋医療センターへ向かいました。

仕事をしていた頃の活力は感じられませんでしたが、4月には焼肉、5月にはステーキを食べられる体力はまだありました。しかし、会う度に衰えを感じていたのも事実。おそらく何年も前から患っていたのでしょう。

血液系は新型コロナの規制がいまだ強く、この日の面会はできませんでした。私は早々に諦め、中学生の頃から通っている志賀本通の牛コロ宮内へ母と行きました。

「よし、今日はおいしいうどんでも食べて、もうぐっすり寝よう。明日は俺、仕事あるで」

入院して面会謝絶なら成す術はありません。父への願いは一つ。なるべく楽に終わりを迎えてほしいということです。死は悪ではない。そう思うから無理に死を避けようとして余計に辛くしてしまう。死ぬときには死ねばいいと私は思います。残された方は悲しいのですが。

運良く、翌日は母が、その翌日には私も会えました。車椅子に乗った父は私を見ると手を上げました。

「お前忙しいのに大丈夫なのか」

父は力なく微笑みました。

自分がキックボクサーとして一流になれたのは、品格の劣るクソガキから救い上げてくれた父親の拳のおかげでもあります。そう思うといつも胸がいっぱいになります。直接伝えようとすれば涙が止まらず、今の父では困惑するだけだと判断し、言うのは止めました。

「父さん、元気で」と面会の帰り際に手を握ったのが、直接的には今生の別れとなりました。

感謝の気持ちはタイムマシンができたときに、中学生の私をボコボコにして後悔しているかもしれない憲治に直接伝えればいいかなと計画しています。それまで私が元気でいなければ。よし、がんばろう。

妻と義母、叔母たちの手助けのおかげでお通夜も仕事できました。告別式の夜には約束していた会食にも行けました。悲しみに暮れても父親は元気に生き返りません。




告別式から数日後、急な悲しみに深く落ち込んでいた母から連絡がありました。そこには近況報告とともに、こう綴られていました。

「なんとかこの生活にも慣れてきました」

おいおい、この立ち直りの早さ。私の中の父の細胞も笑っていることでしょう。とりあえず、私たちが生きているから大丈夫。

父さん、ありがとう!

【 憲治と綜亮と桃香 】

明るく生こまい
佐藤嘉洋