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娯楽は制約の先にある

最近、オリジナルのゲーム(ボードゲーム?)が作れないかと、妄想にふけることが趣味になっています。
そこで発見したことが「制約こそ娯楽の本質」ということです。
一見、制限をかけることは物事をつまらない方向に推し進めることになりそうです。
現代が良い例でしょう。
規則やらモラルやらを押しつけ合った結果、それが強制力の強い制約となり、大変生きづらい社会になっているように感じます。
何をするにも周囲を気にするような世の中に、退屈さを感じることも少なくありません。
ですが、その「制約」は娯楽を生み出すトリガーとなりうる、つまり「制約」は「楽しさ」の根源とも言えるのではないか、そんなことにきがつきました。
今日はそんな「制約」と「娯楽」について、気ままに書き綴ってみたいと思います。

今回の発見にいたったのは、新たなゲームを作ろうと知り合いと話をしていたとき。
数独(ナンプレ)がふと目に入り、これを一緒にプレイできたら、ひいては対戦型のゲームにできれば面白いのではないかと思ったのがきっかけです。
数独とは、9✕9マスの中に規則にしたがって数字を入れていくパズルです。
もともと数字がいくつか入っているため、それらの数字を考慮した上で適切にマスに数字を入れていきます。
これをゲームにするために、まっさらな9✕9マスを準備し、交互に数字を埋めていけば良いのではと思いました。
最初はどこにどんな数字を入れても良いような状況ですから、簡単に数字を入れることができます。
しかし、マスが数字で埋まっていくにつれて、書き入れられるマス、数字が限られてきます。
どのマスになんの数字が書き入れられるかを考えるのは、オリジナルの数独の楽しさでした。
また、このマスにこの数字を入れると相手が困るのでは?と先を読むのは、従来の数独にはない、新しい楽しさでした。

まだまだゲームとして洗練されていない遊びですが、このゲームで感じた楽しさを言語化すると次のようになると思います。

  • マスに書かれた数字によって生まれた制限にピッタリと合う解を見つけることの楽しさ

  • 自分の手によって現状に新たな制限をかけ、それによって相手の手をコントロールする楽しさ

このことをさらに簡潔に表すと次のようにも言えます。

  • 制限から解を導くことの楽しさ

  • 制限を生み出すことの楽しさ

いずれも制限によって生まれた楽しさと言えるでしょう。
このことから導かれることは、楽しさを具象化した娯楽は制限によって生まれたということです。
制限によって楽しさが担保されていると捉えても良いでしょう。

実際に存在する娯楽を思い返してみると、よく考えずともそれが正しいという結論に至ります。
例えば、サッカー。
サッカーは手でボールを扱わないという制約のもとに生まれたスポーツです。
これが手でボールを扱っても良いとなればサッカーの楽しさは失われます。
それによって別の楽しさが生まれる可能性もあるでしょうが、手でも足でもゴールに入れれば良いというスポーツに楽しさは見出せないように感じます。
別の例として、芸術はどうでしょうか。
芸術をかじったことのない私が芸術を語るのは、あまり良くないような気もしますが、間違えを恐れずに考察してみます。
無秩序の中に生まれる芸術性があることは素人ながら理解しているつもりですが、それではその正体とは一体なんなのでしょうか。
私が思うに無秩序の中の芸術性とは、無秩序の中にある秩序や規則性、意味を感じさせる形にあると思います。
つまりそれは、単に無秩序なのでなく、無秩序を芸術に昇華させるためには一定の制限が必要ということになります。
これらの例は世の中に存在する娯楽のほんの一部でしかありませんが、娯楽には制限が必ず存在するということは、疑いようのない事実のように思います。

これらのことから、娯楽の本質は制約にあることがわかりました。
さて、このことをさらに広く一般化すると、次のように言語化できます。

制約こそが人間を人間たらしめる要素である。

人間と一般的な動物との違いは、知的な営みが行えるか否かです。
知的な営みとは、自他の利益を求めるために、互いにとって不自然とも言える条件を容認し合って生まれる、合理的な活動のことだと思います。
つまり、自身に対して制約をかけることで、自らの欲する何かを得ようとする活動であると言えます。

したがって、人間は自身に制約を課すことでこそ人間として他の動物と一線を画すのであり、制約のない人間社会はその他の動物社会と何ら変わりないと言えるでしょう。

娯楽とは、動物の中では人間に固有の活動だと思いますので、その娯楽の本質は人間性に由来すると考えられます。
したがって、人間の性質からも娯楽の本質は制約にあると言えるでしょう。

制約が多い現代において、生きることはゲームをプレイすることと本質的には変わりないと思われます。
その違いはリセット、リプレイが可能かどうかです。
そんなゲームと同じであるとするならば、この息苦しく感じる世の中に楽しみを見出して生きることこそが、人間であるために必要な能力なのだと感じました。
面倒くさい世の中ですが、人間性を保つためにも面倒くさいと思えることを楽しんでいかなければなりませんね。

以上、最近の気付きの言語化でした。

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