オキナワンロックドリフターvol.82

シフトを大幅に減らされ、予定が狂い、かつかつの状態で毎日を過ごし、受験費用や入学金としてとっておいた虎の子を少しずつ削るはめになった。
さらに受験勉強しようにも高校時代は不登校、さらに高校卒業して8年のブランクでどこから手をつけていいのかわからない。
覚悟を決めた。卒業してから、私の中では黒歴史、いや、ドブ歴史でしかない高校を訪ねようと。
翌日、仕事が午前中で終わると多少は身なりのいい服に着替え、菓子折りを買っていざ出陣。
久しぶりに訪れた高校は知っている先生方は殆んどいなかった。
しかし、偶然に高校2年の頃の担任を見つけ、挨拶し、菓子折りを手渡した。
「お前がここに来るなんて珍しかね。どぎゃんしたと?」
いとうせいこう氏に似た容貌の先生は黒ぶちメガネを上げて驚いていた。
私は事情を話し、大学受験することを話した。
先生は感慨深いといった表情で呟いた。
「おまえ、あの頃はいつ死んでもおかしくないくらい追い詰められていたもんな。そうかあ、そんなお前が大学受験か」
先生は頷くと、「少し待ってろ」と言い、職員室に入って数分すると大量の問題集や参考書を出してきた。
「業者からサンプルとしてもらったもんやけん全部やる。お前は理数系は全然駄目やったけれど、国語と英語ならあと半年すればなんとかなるやろ。あと、安心しろ。お前が受けたい大学の受験科目は英語と現国だけやけん、お前に有利だ」
古文と漢文はお手上げだったもんなあ、私。
さらに小論文の傾向と対策をメモしたものを手渡された。
「あの大学の小論文の出題傾向は、時事問題よりもコラムから抜粋されたものが多い。けれど、念のために新聞の社会面くらいは目を通しておけ。だいぶ違うから」
私は先生に頭を下げ、大量の問題集をバッグに入れ、リサイクルショップから英単語帳を格安で手に入れて、8年、いや、高校時代はろくに勉強していなかったから11年のブランクを必死で埋めた。
職場に味方は殆んどおらず、シフトが大幅に減ったことで祖母との関係もぎすぎすしていた。
「あんたの我がつよかけんこぎゃんことになる。長いものに巻かれることを学ばな……」
祖母の小言に苛立ち、喧嘩になる頻度も高くなった。まさに貧ずれば鈍ずだ。
しかし、それでも大学進学を諦めきれなかった。 寝る間を惜しんで勉強し、明け方に浅い眠りの中で見た夢は決まって、中学にあがる前の春休み、神戸へ向かうフェリーで見た広い海の夢だった。
目の前に広がる沈む夕日の赤、日に照らされて煌めく金色の海。頬を撫でる潮風。
寄るべのない心に、「海は広い。世界のどこかにお前の居場所が必ずある」と励ましてくれるようなそんな風景が繰り返し、繰り返し夢の中で現れた。
城間兄弟との電話も心の支えだった。2週に1度、身近なことを数分くらい話す程度の電話だったが好きな人の声を聞くとかなりささくれた心が和らいだ。
しかし、この頃から俊雄さんの様子がおかしかった。喋りがふわふわしてきて、80年代の業界人のようなギャグを連発していく俊雄さんに不安しかなかった。
対象的に正男さんはどんどん穏やかになっていった。
壊れゆく俊雄さんに戸惑う一方、優しさと温和さを取り戻していく正男さんとの電話はすり減った心を回復させてくれた。
しかし、この年の春から、めでたいなあと思う反面、城間兄弟好きとしては非常に複雑な出来事が起きた。
城間兄弟の代わりに、ベースに8-ballの照屋クリス氏、ボーカルに元ジョージ紫&マリナーのJJこと新崎ヒロト氏を入れての紫(以下、弊ブログでは再結成紫と呼ぶことにする)が始動したからだ。
サイトの常連客の方々はこの再結成を喜んでいた。しかし、私は過剰な判官贔屓と言われても仕方ないくらいの城間兄弟好きを差し引いても再結成紫がどうしても好きになれずに悩んだ。
そんな中、清正さんから電話があった。
ココナッツムーンの公式サイトをweb製作会社に作ってもらうことになったので、今度はココナッツムーン通信の更新をしなくてもいいという連絡だった。
ついにこの時がきたか。もともと新しいサイトができるまでの繋ぎとして、自ら志願してはじめたブログで、ブログ更新のためという口実で清正さんと連絡をとっていたが、それも今後は少なくなる。それが寂しかった。
私は通信の最終号として挨拶とともに新しいサイトのURLをリンクし、3ヶ月、更新はしないものの、新しいサイトへの橋渡しとしてブログを残し、秋にブログを消去した。
2年続いたココナッツムーン通信はこうして幕を閉じた。
2週にいっぺんのココナッツムーン通信の更新がなくなり、一気に虚脱感が襲った。
仕事での居場所のなさ、貧しさ、出口が見えない受験勉強というストレスからか、勉強の合間に、疲れたから甘いものをと言い訳しては駄菓子をつまんでしまい、自分でも驚くくらいにむくむく太りだしたのもこの頃だった。
さらに、肌も荒れ、ストレスの悪循環だった。
いつまでこんな荒れた日々が続くのか。
いらいらは募るばかりだった。
さらに主任とコンサルタントは結託し、私の欠点をあげつらい、社長一家に報告した。そして、ただでさえ減ったシフトはまた減らされた。
これでは生活できない。私は求人サイトから内職の仕事を見つけ、それで足りない生活費と目減りした虎の子の穴埋めをはじめた。
そんな中、正男さんから電話があった。
ん?なんだろうと思っていたら意外な用件だった。
下地さんの愛用しているギターならファンの需要があるかもよと私はいらんことしい、うちのブログで下地さんのギターのことを紹介していいかと尋ねた。
でも下地に聞いてみないと、と正男さんが仰るので日を改め、正男さんを通して下地家の電話番号を教えて頂き、下地さんの奥さんでもある城間兄弟の妹さんと電話でお話した。
奥様は気さくで優しい方だ。さらに私が大学受験をすることを正男さんから聞いたそうで、手製のお守りを贈ってくださるという。
驚きと喜びではしゃぐ気持ちを抑えつつ、数分話し、こちらの連絡先を奥様に告げた。
そして数日後。携帯に留守番電話が入っていた。
着信履歴を見ると、見知らぬ携帯番号が記されている。
留守電が入っていたので、恐る恐る留守番電話サービスに接続すると朴訥なおじさんの声が。
なんと、下地行男さんだった。
慌てて、着信履歴に記された番号をリダイヤル。
電話を取る際に"Hello?"と言われたのには戸惑ったが思いのほか饒舌で、下地さんの第一印象は気のいいおっちゃんだった。
これを機に、下地さんとはその後たまにメールをやり取りするようになった。
かわいいお孫さんの写メールをもらったときには微笑ましくなるおじいちゃんしている下地さんがいて、かと思えば音楽についてのメールの文章の狭間にはギタリストのこだわりと矜持がこぼれ匂い、知られざる下地さんのキャラクターが少しずつ分かり、私は未知の森を切り開いたような気持ちになってわくわくしつつ下地さんとメールのやり取りをした。
そんな中、私は下地さんから依頼を受けた。
オリジナル紫メンバーを描いたイラストを送って欲しいとのこと。
なんでまた。私は下地さんの依頼に困惑した。
しかし、頼まれたからには少しはマシなものを。
早速、文房具店にてケント紙と筆ペンと万年筆とクーピーペンシルを購入。
そして今までお絵かきソフトで描いた絵を編集して、さらに無理を言ってサイトの大事な常連さんの一人である中道さんに印刷していただき、それらを発送。
数日後、携帯電話に届いた下地さんからのお礼のメールがきた。手放しで誉めてくださり、なんだかこそばゆかった。
そして、少し申し訳ないことをした。
手描きのイラストのうちの1枚は若かりしころの紫のメンバー6人が手を繋ぎ、草原で昼寝している姿を描いたものだからだ。
それは、城間兄弟抜きでの紫再結成に複雑な感情を抱く私の心の現われだったから。
私は、再結成紫のメンバーとしてこれから活躍するであろう下地さんに喧嘩を売るようなイラストの非礼を詫びた。
しかし、下地さんは怒らずに私の気持ちを汲み取ってくれた。
「俺も、いつかはこんな日がきたらと思っているよ」
社交辞令を差し引いても下地さんの言葉が優しくもうれしく、そして切なかった。
それから1週間後に奥様から小包が来た。
開けてみるとビーズ細工のゴーヤーの携帯ストラップと清めの塩を中に入れたフェルトのミニサイズパーランクー(エイサーのときに使う小太鼓)だった。振るとパーランクーはしゃかしゃかと小気味よい音を立てていた。
それを聞くとなんだかほっとした。よし、受験のお守りと厄除けに鞄に忍ばせよう。
6月中旬、受けたい私大のオープンキャンパスがあり、その日から私は下地さんの奥様から頂いたゴーヤーのストラップをキーホルダーにし、パーランクーを鞄に忍ばせてオープンキャンパスに参加した。

(オキナワンロックドリフターvol.83へ続く……)
(文責・コサイミキ)

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