好奇心について
昨日の続きで好奇心について書こうと思って、では、さて、どう書こうかと思案しているところへ、ゆき坊さんのノートが飛びこんできました。
紹介されているのは、シカゴの『素直になれなくて』。
原題は『Hard to say I'm sorry』。
こんなふうに「素直になれないこと」を素直に歌にされてしまうと、凍り付いていた心の氷もブレイクされてしまいます。
でも、原題にもあるとおり、「素直になること」は難しい。
できてしまいさえすればこれほど簡単なことはないのに、そうしようと思っても心が凍り付いたように、そのように動いてくれないのが「素直」。
子どもの頃は簡単にできたのに、大人になってしまうと難しいという性質もあります。
そして、子どものころは素直に発揮できたのに、大人になるとどうしても不純になってしまうのが「好奇心」というやつ。
英語にすると「Sense of Wander」(というのは、ぼくの意訳ですが)。
ところで『素直になれなくて』ですが、素晴らしいところが歌以外のもうひとつあって、それは「素直になれなくて」という意訳です。「Hard to say I'm sorry」という否定的な言い回しは実に英語的だと思いますが、それを「素直になれなくて」という日本語訳にしたセンスは素晴らしい。
この訳はいったい誰がしたものなのか、ちょろっと調べましたが出てきません...、もっと注目されて然るべきところだと思うのですが、残念です。
そして、感謝すべきはもうひとつ。「素直」という言葉が用意されている日本語。そして「直」という言葉を用意してくれている東洋の文化。
英語で「素直」は「honest」ですが、「honest」を日本語にすると「正直」になってしまいます。「素直」と「正直」は、とても似てはいるけれども、心の一番深いところで違っている言葉です。
「正直」は「忠」に近い。「素直」は「仁」や「徳」に近い。
「素直」を英語でいうならば「integrity」が近いように思います。経営学の神様・ピーター・ドラッカーが著書『マネジメント』のなかで中心概念として用い、日本語では「真摯」と訳される言葉です。
そう、「素直」と「真摯」と「好奇心」は三位一体なんです。
シカゴの歌からは遠くに行ってしまうようですが、ここで亀野あゆみさんのテキストを紹介させてもらいます。
両記事とも、難解な知的操作が簡潔な言葉でまとめられている良記事です。特に後編が素晴らしいと思います。簡潔にまとめられているからこそ、見えてくるものがあります。
問題の提起および展開はリンク先を見ていただくとして、結論はこうです。
「当社が、オフィスビルXのエアコンを不調なまま放置しているという問題」
この結論の印象を簡潔にいうと、「正直」が適切だろうと感じます。会社組織への「忠」が色濃く漂うので、「素直」というよりは「正直」。ところがたとえば外部のコンサルが提言をしたとすると、「素直」な感じになる...。
実のところ、「当社が...放置している」という事実は、その社に所属する者にとってもっとも(心理的に)見たくないところです。だから難しい。
『素直になれなくて』は恋愛がテーマですが、テーマが違っても同じです。「I'm sorry」と言うのは難しいのは、それが「見たくない」から。
恋愛を経過(「経験」ではありません)されている方ならお分かりになって頂けるはずですが、「恋」を「愛」へと昇華させていくカギは、なんといっても「見たくないこと」に向き合えるかどうかにかかってます。
「見たくないこと」を見る。
このときに必要な心の作動を言葉にすると「勇気」でしょう。『嫌われる勇気』や『幸せになる勇気』の「勇気」です。アドラー流にいえば「素直になれない」のは「ライフスタイル」になるでしょう。
シカゴは『素直になれなくて』で、こんなふうに唱っています。
After all that we’ve been through
I will make it up to you,
I promise to
マネジメント流に問題を解釈するなら、この「it」をどう定義すべきかということになります。それは、
「見たくなかったこと」を見る
に尽きると思います。そのことによって「何ごとか」が始まる。
何が始まるのかは、実のところ、始まってみなければわかりません。にもかかわらず、「何かが始まるに違いない」という予感をぼくたちは持つ。シカゴの歌からも感じ取るし、またそうでなければマネジメントでいくら「適切な問題の定義」をしたところで何も起きはしません。
何が起きるかわからないけれど、何かが起きることをぼくたちは識っている。そして、その態度を東洋の文化では「直」という。英語では「integrity」というのだと思います。
この「直」の簡潔な表現が論語の中にあります。何度も何度も持ち出して気が引けるのですが、「為政第二」の第一七。
子曰 由 誨 女知之乎
知之為知之 不知為不知
是知也
子曰く、由よ、汝に之を知ることを誨えんか(おしえんか)。
これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為す。
是れ知るなり。
なぜ、わざわざ「不知為不知」をする必要があるのか。それは「見たくないところ」だからです。「知之為知之」は、誰もが言われなくてもやります。そこは「見たいところ」だからです。
「見たいを見る」態度を「好奇心」とは呼びません。
「好奇心」の中には「不知為不知」が含まれている。だけど、だからこそ、大人には難しい。
子どもが好奇心に満ちているのは、まだ困難を識らないからではあります。大人は困難を身を以て体験せざるを得ないし、ゆえに困難を遠ざけようと努力をする。そのことに【成功】すると、その【成功】を持続したいと欲望する。
人間社会の中で【成功】することを願う「ライフスタイル」を身につけ、それを幸福だと勘違いをしてしまう。勘違いのままでいたい――「普遍経済学」というものを探究するに至ったバタイユに言わせれば「好運への意志」というやつでしょう。
好奇心を保つには「見たくない者を見る勇気」が必要です。
勇気を奮い起こす生命力が必要です。そして不思議なことに、勇気を持つことができてしまうと、〈生きる力〉が湧いて出てくる。〈生きる力〉は封印されているだけ、なのです。
その封印を解く魔法の言葉が、I'm sorry.
封印が解けると、I will make it up to you.
同時にそこには相手への、 Sense of Wander.
この3つの統合を指す言葉が「integrity」。
あるいは「徳」「仁」。
〈生きる力〉が素直に発露されれば、そこには好奇心が生まれ、「見たくないもの」を見つめる勇気が生まれます。
話が大袈裟になってしまいましたので、もう少しささやかなのも。
感じるままに。