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『水はみどろの宮』


予定外の【再掲載】を2つも上げてしまいましたが、、、、今日、上げようと考えていたのが当テキスト。


石牟礼道子著『水はみどろの宮』


先頃お亡くなりになった石牟礼さんですが、石牟礼さんというと、どうしても『苦海浄土』のイメージが強いです。

工場廃水の水銀が引き起こした文明の病・水俣病。この地に育った著者は、患者とその家族の苦しみを自らのものとして、壮絶かつ清冽(せいれつ)な記録を綴った。本作は、世に出て30数年を経たいまなお、極限状況にあっても輝きを失わない人間の尊厳を訴えてやまない。末永く読み継がれるべ〈いのちの文学〉

上記引用は『苦海浄土』の内容紹介。

「人間の尊厳を訴えてやまない」という言葉は、石牟礼さんのイメージそのものでもあります。

素晴らしいのだけれど、それゆえに、軽い気持ちでおいそれとは近づき難いような厳めしさもまとってしまっている。

かくいうぼくも、『苦海浄土』は、前半の方は一度目を通したものの、なかなか全部は読み通せずにいますし、再読をしてみようともなかなか思えない。

けれど、そうしうた「厳めしさ」は石牟礼さんの一面でしかないらしい。



いささか話はズレるようですが。

『蟲師』という漫画、およびアニメがあります。ぼくの大好きな作品たちですが、アニメの方で最初に接したとき、なぜか連想したのが『苦海浄土』でした。


およそ遠しとされしもの。
下等で奇怪、見慣れた動物たちとはまるで違うとおぼしきモノ達。

それら「蟲」はもちろん想像上の産物でしかなありません。有明の海に暮らしていた人々を苦しめた有機水銀とはまったく違うのだけれど、でも、

すべての生命は、ただ在るように在るだけ

とする視座は、『苦海浄土』のほうにも共通するような気がしていました。



むかしな、萩の館の姫さまが、舟に乗らしたぞい。お雛さまのような、小ぉまか掌(て)えして、金平糖をばな、ちょんとのせてもろうて、なめなめゆかれたが、もう、よか嫁御さんにならしたろ。名主さまからいわれておったでな、愛らしか姫さまを乗せておって、川の主におっ盗られでもしたら、どうしゅうと思うてな、前々から観音さまにお願をかけて、棹を取ったぞい。無事にお渡ししたい一心でおったが、その姫さまが、ものをいいなはった。ちょうどあそこの葦の中に、白鷺が一羽降りておったが、姫さまは、金平糖ばのせた、お雛さまのごたる手をさし出して、膝をついてな、

 来(こ)う 来う
 白か鳥
 来う 来う
 白か鳥

とな、片っ方の袖をひらひらさせて、招きなはった。唇の端に、金平糖のくずをば、ちょんとひっつけてな、むごう、愛らしかったぞい。


舟を操って川の渡しをやって暮らしを営むお祖父さんが、孫娘に向かって語る言葉です。

『蟲師』にもありそうな感じですよね?


本作は児童文学です。

社会に向かって「人間の尊厳を訴える」のが石牟礼さんの片面だとするならば、もう一面は人間に向かって「生命の尊さ」を語るところ。後者が、とりわけ子どもに向けて語られると、「すべての生命はただ在るように在るだけ」といったような無常観がよりわかりやすく露わになる。

無常観の「深み」が、そのまま生命そのものへの愛情の「深み」になっている。

虚無感になるのではなくて。



実は、ぼくはまだ、本作を最後まで読み通していません。読み終えてしまうのが、なんだかもったいなくて。

少し読んではページを閉じて余韻を味わって、しばらく経って読書を再開する折には少し戻ってから読み返し始めたり。

当テキストを上げてみようと思ったのも、読み終えてしまうのを少しでも先延ばししようとしてのことかもしれません。

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