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宮台真司の『万引き家族』評への批評

『自分の頭で考えるお金の話』の続きを書こうと思いましたが、予定を変更します。

上掲の批評文を読んでしまったので。
『万引き家族』はまだ観てないのに...。

「法の奴隷」「言葉の自動機械」という言葉に惹かれて読んでしまいました。というのも、ぼくが『お金の話』で示したいのは、人間は「価値の自動機械」になってしまっているということだから。だからこそ、

 価値は自身で決めよ!

ということをいうわけです。
アドラーと同じく。
ただ、アドラーは「価値≒価格」とは言わない。
宮台さんも言わない。


もうひとつの「法の奴隷」という言葉の方にもシンクロします。次回『その8』では約束手形の話を予定しているのですが、これがちょうど私的貨幣から法定貨幣の中間、「法の奴隷」への大きなステップになっているから。

冒頭「昭和と共に過ぎ去ったもの」に触れました。ソレを一言でいえば、万引き家族たちのように「法外」でシンクロする能力だと言えます。「法内に露出した法外」という両義性が布団です。ソレを失って「法の奴隷」「言葉の自動機械」へと劣化してAI以下になった人間たちが社会を滅ぼそうとしています。『万引き家族』はその事実への怒りを突きつけます。

「シンクロする能力」が生み出したのがお金です。法内か法外かは関係がない。お金の起源に法は関係がない。ただ一旦お金が生まれれば、法が関係してこざるを得ない。

「万引き」とは、お金と法とが連係して生まれた「法(体系)外」における経済行為です。そして、経済行為とは「暮らし」に他ならない。法内であろうが法外であろうが、一緒に暮らしていれば家族になっていく。血縁ですら必ずしも関係がない。

血縁も宮台さんの言葉を借りれば「自動化された言葉」に過ぎません。その証拠は人間は自身の感覚では血縁を明確には識別できないことです。だからこそ、DNA鑑定が要請される。


★ ontologyとrealism

学者さんというものは便利なものです。不遜な言い方かもしれませんが。

不遜と感じることも「自動化された言葉」ですけれど。

ontologyという言葉が提示されています。

「世界はそもそもどうなっているか」
「世界の中で〈私〉はどのような存在か」

ぼくが「アフォーダンス」やら「そのようにできている」というのと同じような意味だと解釈をします。

realismが前提とするontologyは、約束事ではありません。まして主観でもありません。蛙には蛙の、鯨には鯨の、人には人のontologyがありますが、そこに優劣はありません(多自然主義multi-naturalism)。ontologyを無視した営みは、人や社会を生存できなくします。人の生き方も社会の制度も「どうとでもあり得る」訳がなく、realismが必要です。

法もお金も、本質的なところは「便利なもの」に過ぎません。それがないと生きていけないわけではない。ただ、大勢の「みんなで」生きて行くには必要な便利さではある。そして一旦、この便利さに慣れてしまったら、生きにくく感じてしまう――「言葉の自動機械」「価値の自動機械」に成り果てる。


★ 都合の良いrealism

「法の奴隷」「言葉の自動機械」となった人間達が社会を滅ぼすことへの激しい怒り――この怒りは、誰のものなのか。

宮台さんのものであることは間違いがない。そのことを、宮台さんの文章からぼくは直接感じ取ります。また、どうやら、是枝監督のものでもあるらしい。ここはぼくはまだ直接確認はしていないけれど、宮台さんの文章ではそうらしいし、その見立ては信頼に値すると思う。

また、こうした「怒り」を持っているという意味においても、信頼はできる。

ただ、ぼくの心のささくれたところにひっかかってくるところもあります。なぜ、パヨクとウヨブタが出てくるのか? 宮台さん、あんたの心にも「ささくれ」があるのね...


人間がバカなのもまた、ontology

だとすれば、それは非難をしてみたところでは始まらない。「そのようにできている」としか言いようがない。

けれど、それは、人間は破滅願望を抱えて生まれてくるという意味の「バカ」ではない。「法内のrealism」――もっというと、「自分に都合のよいrealism」しかなかなか目に入らないという特性(=ontology)からくるもの。

その都合の良いrealismのなかに宮台さん自身もいるのではないか――とぼくは疑っています。

もちろん、それは確証のない疑いでしかないけれど、そのように疑いを持つ理由がなくはありません。

なぜ、万引きという経済行為が目に入らないのでしょうか?

感じるままに。