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自分の頭で考えるお金の話 番外~夢想の理由

今回は番外です。


誰もが馴染んでいるにもかかわらず、誰にもその正体がよくわからないお金。使えば便利で、便利だからこそ厄介で、ぼくたちの暮らしを自由にし、かつ、束縛するお金。正体を考えなくても、使う分には何の差しつかえもない。

そんなもののことを「自分の頭で」考えてみるだなどというのは、それこそ役に立たない哲学ですが、そんなことを続けるのには理由があります。

それは実に単純な理由で、「夢想」だからです。

もしかしたら「妄想」の方なのかもしれないけれど、そうは思いたくない。夢想には、実現の可能性がある。


よりよく生きたいと願う人間は夢想をします。夢想を現実のものにしていく可能性を探る。「可能性を探ること」が、そのまま〈生きること〉だと言っていいくらいです。結果として可能性が実現できなかったとしても、可能性を探り続けることができれば、それは〈人間として生きる〉ことができたと言えるはずです。


ぼくが求めている可能性は、「伝えたいこと」としてこちらに書いてあります。

見渡すと理不尽なことだらけの世の中で、人間を今この時点で性善だと断言することは不可能です。けれど、夢想をすることはできる。

多くの者が心のなかでは善でありたいと願っていることは断言できるし、ほんの少しの例外を除けば、人間は性善なものとしてこの世に生まれてくるのだということも断言することができる――「断言」は「確信」と言い替えても、意味はまったく変わりません。

なのに、現実、人間は性善だとは断言できない。この【落差】には何らかの理由があるはずだし、その理由を解明することができて、【落差】を埋めることができたなら、人間が性善でいられる可能性が出てくるに違いない。

すなわち夢想です。


それがなぜ「お金の話」になるのかを語りたいのが『自分の頭で考えるお金の話』であるわけですが、ここでは先回りをしたいと思います。夢想の具体的な形を書き記してみたいと思います。


★ だれもが経済的に〈自立〉をする

「経済的に自立をする」と書くと、ほとんどの人は「生計を立てるのに十分な稼ぎを得ることができるようになる」ことだと解釈するでしょう。

ぼくが夢想する経済的〈自立〉はそのような意味でありません。

価格から自由になること。
それは同時に価格と価値とを、だれもが自在に合致させることができるようになることです。


自身の価値は自ら決めるべきだし、他人は他者の価値決定に介入するべきではない。

上の命題をひとつの言葉に置き換えるなら、妥当なのは「自由」という言葉でしょう。つまり「誰もが自由であるべきだし、自由を保障されるべき」。現実にはなかなか上手く行かないことはあるにしても、近代以降の自由民主主義を標榜(夢想)する社会の中で生きる人間で、上の命題を否定する人間は少ないはずです。

「自由」は、ぼくたちにすでにして前提であり目標となっている。その「自由」の中に「経済活動の自由」があることは言うまでもありません。


けれども、です。ここは声を大にしていいたい。

「経済活動の自由」は「価値決定の自由」を保証するものはない。


★ 貨幣経済においては「価値≒価格」である

自由民主主義の社会は同時に資本主義の社会でもあります。経済活動の自由は資本主義の前提ですが、それは「貨幣獲得の自由」であるに過ぎず「価格決定の自由」は保証されていない。保証されているどころか、その自由を積極的に放棄をして市場原理に委ねることが、合理的で理性的な人間だと喧伝されています。

「喧伝」という言葉は、恣意的です。というのも、「市場原理に自由を委ねるべき」というのはイデオロギーに過ぎないと考えるからです。

「自身の自由を外側の意思(たとえば神(を語る者)、あるいは独裁者)に委ねるべきである」と言われれば、だれもがそこにイデオロギーを感じます。そして、資本主義をイデオロギーだと認定されている。だから「主義」という言葉がつく。

なのに、不思議なことに、「市場原理に自由を委ねるべき」という喧伝を、自由民主主義下の資本主義社会におけるイデオロギーだと感じる者は少ない。


もちろん、それには理由があります。それも単純な理由。

価格≠価値だと思い込んでいるから、です。価格と価値は、それぞれ次元が異なった体系のものだと思い込んでいる。

価値にしても価格にしても人間社会の外には存在しない観念なのに、どちらも人間が生みだしたものなのに、両者をなぜか同一の視線で眺めようとはしません。

それは昔々、神の存在を頭から信じて、神の存在証明に知能を働かせることはあっても、神が存在しないことの証明には知性を働かせようとすることがなかったのと、同様の傾向(信仰)でしょう。

これは哲学の怠慢だとぼくは考えているし、だからこそ敢えて「喧伝」という感情的な言葉を使います。皮肉を込めて。


貨幣経済社会においては、価格は価値です。価値の全部が価格で表現できるとは言わないけれど、価格が価値であることに間違いはない。価値の一部が価格で表現できないからといって、価格が価値はないとは言い得ない。なのに資本主義のイデオロギストは、その「一部」をもって「全部」だと信仰しようとする。

まるで、奇跡(だと思わざるをえない現象)が存在するからといって神が存在することを「信じる」のと同じです。


このような「信仰」に依って立つ資本主義イデオロギストは、価格と価値とを分離することで、「価値判断の自由」を「価格決定の自由」と切り離してしまいます。切り離した一部の「価値判断の自由」だけをもってして、人間は自由であると前提をし、自由を目標に掲げて完全な実現を目指そうとする。

ぼくにはこちらこそが「妄想」に思えて仕方がありません。


★ 囚人のジレンマ

貨幣経済において価格が価値になっていくことの理路は『自分の頭で考えるお金の話』で触れるとしても、考え方だけは示しておきます。考え方の補助線になるのが「囚人のジレンマ」です。

二人の囚人は、互いの情報伝達が封じられています。囚人のジレンマが提示するのは、情報伝達が禁じられた状況下で相互協力の合理性です。

wikipediaにはいろいろと記述がありますが、核心は一言で言い表すことがでます。

情報伝達が不可能なら協力も(基本的に)不可能。

ミソは「基本的」ということで、やろうと思えばできなくはない。双方共に協力の意思があって、情報伝達ができなくても意思を信じ合えるなら協力は不可能ではない。けれど、それはどうしてもリスクがつきまとうことになるので、合理的に考えるならば協力しないことが合理的だという、ごく単純な結論です。

この単純な結論を受け容れるところから発明されるのが「平和条約」です。たとえ情報が伝達されなくても、信じるに足る物質的確証が存在し、それが入手することができるならばリスクを回避する「平和条約」として機能しえる。

このリスク回避の「平和条約」が貨幣(お金)であることは言うまでもありません。


近年の研究では、お金は元々は「記帳された情報」であったことが明らかになってきたそうです。

それがあるとき「記帳された情報」から「物質的なモノ」へと進化する。「物質的なモノ」となったのが貨幣ですが、貨幣の出現で、取引をする人間は囚人のジレンマ的状況から逃れることができることようになる。

情報が確実に届く状況においては、「信用しようとすること(態度)」もまた情報として相手に伝わりますから、「信用しようとすること」を信用する方が有利だし合理的です。しかし、情報伝達が遮断されると、その合理性がひっくり返ってしまう。

けれど、その転倒によって、こんどは遠方との交易が可能になるという「おまけ」がつくようになって、その「おまけ」の方がどんどん大きくなっていったわけです。


★ The Art of Valuing

エーリッヒ・フロムに、『愛するということ』という名著があります。原題は『The Art of Loving』。

「愛」ではなく「愛すること」という持って回った言い方になっているのは、原題が「Love」ではなく「Loving」だから。

「愛」は観念に過ぎませんが、「愛すること」は具体的な技術です。同様に、価値や価格も虚構に過ぎないが、「価値すること」「価格すること」は具体的な技術であると言える。

「愛すること」がそうであるように、「価値すること」「価格すること」が機能するには、コミュニケーションが行われていなければなりません。また、いくら「愛」があるといっても、そこに具体的な情報のやり取りがなければ、愛はお題目に過ぎない。ゲーム下の囚人達のように、お題目を信じて愛を遂行しようとすることは可能だけれど、そこには常に裏切りのリスクがつきまといます。


上掲の『新しい時代のお金の教科書』では、お金の最大の欠点を「文脈の毀損」だと指摘をしてます。ぼくもこの指摘に同意すると同時に、それはむしろ逆だと考えます。(囚人達のように)「文脈の毀損」が生じてしまうような状況があったからこそ、逆に貨幣は生まれた。

だとするならば、お金が人間同士の関係性の中に浸透していくということは、人間同士の関係性を毀損していくということでもある。


「愛すること」は人間の自由に属します。

人間には愛しない自由もある――フロムが愛する技術を先天的ではなく、習得することで獲得する技術だと考えたことと、愛が自由であるということとは、フロムが属した西洋文化の観点からすれば同じことだと考えてよい。同様に、人間には「価値すること」「価格すること」の自由を習得し獲得することができるはずだけれど、その技術は「愛すること」がそうであるのと同様に、情報伝達がなされないと習得が進んでいくことはありえません。


★「価格する」ことは「感応」である!

ぼくが夢想する経済的〈自立〉のイメージは伝わったでしょうか?

「愛すること」の自由を行使できる人間は生き生きとした〈生きる力〉を発揮することができます。ならば同様に、「価値すること」「価格すること」の自由を獲得し、自分の価値を自身で決定できるようになった人間も、生き生きとして〈生きて〉いくことができるようになるはずです。


資本主義下の貨幣経済で機能する市場原理は、「価値すること」「価格すること」の習得を阻害します。特別な才能に恵まれた人だけが例外的に「価値すること」「価格すること」の技術を習得する。

ですが、そのような社会は現実に幸せな社会ではありませんし、そのした社会システムのまま幸せな社会になれるなどとは、とても夢想することができません。特別の一部の者にだけ「愛すること」の技術習得が許される社会を幸せな社会だと想像できないのと同じように。

市場原理が機能するシステムによって算出される価格に従うことは、「同調」です。人間に同調するならまだしも、無機的でしかない【システム】へと同調していくことを、【システム】の中で生きていく人間は求められる。

その同調圧力は「調教」に他ならないと、上のテキストでは記しました。


一方で、「価値すること」「価格すること」は「感応」です。システムと感応するなどということはあり得ない。相手もまた「感応」ができる有機的生命体を情報を槍としてコミュニケーションをすることで、「感応」は可能になっていく。

何度も繰り返しますが、その原理は「愛すること」と同一の、〈いのちの生きようとする力〉の発露に他なりません。学術的な言葉でいうならば、「創発」がそれに近いでしょう。


創発(そうはつ、英語:emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。

全体として創発なる局所的な相互作用が「感応」だと言えばいいのかもしれません。


最後の締めに、もうひとつぼくのテキストのリンクを貼っておきます。

ぼくの夢想するところが、少しでも伝われば幸いです。

感じるままに。