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お金で買えないものをなくす方法

本テキストも〈しあわせ〉の哲学のひとつ。

....にしては、らしくないと思っていただいた方がおられるなら、ありがとうございます。

そう。らしくない。
通常の思考でいくならば。


幸福になるのにお金は必要だけれど、幸福そのものはお金では買えない

たまに「お金で買えないものはない」と言い放つド阿呆がいたりしますが、そうした輩が阿呆だと感じるくらいに、幸福はプライスレスなものだと普通の人は実感している。

もちろん、ぼくとて、そうした意味では「普通の人」です。

幸福はプレイスレス。
すなわち、お金では買えない。

それからすると、本テキストのタイトルは、実感から外れる。一読するとド阿呆なもののように読めてしまうでことでしょう。


ですので、以下、展開していくのは、通常の思考においてのお金で買えないものをなくす方法ではありません。常識外の方法だし、個人では達成できない方法です。

なぜかというと、これは、常識への挑戦だから。
お金というものが纏っている、あるいは構築していく常識への挑戦。


現在は、時代が進歩して、お金についての議論や新しい試みが盛んに行われています。その興隆は仮想通貨ビットコインのインパクトによって始まったといっていいだろうと思います。

ぼくも、お金について大きな興味を抱いています。が、その関心はビットコイン始原のものではない。それよりずっと以前から関心があった。ぼくの場合、お金への関心は自身の自己嫌悪との闘争が始まりです。

お金への関心は、ハラスメントと自己嫌悪への関心の副産物というわけです。

ぼくにとって、お金は、自己嫌悪の原因そのものではないにしても、自身が抱える自己嫌悪を増幅してしまう衣装のようなものでした。それも、その衣装をまとわないと社会人としては生きていくことができない、社会人として認知されないといった類いの。

サラリーマンの、スーツとネクタイのようなものと言えば、ちょっとした比喩になりますか。好みでなくても、着用しなければならないもの。着続けているとやがて似合うようになり、それなりの貫禄も生まれてくる。


お金についてそうした感触を感じている人間は、決してぼく一人ではないはずです。

貫禄が生まれてくるくらいになると、それは自己嫌悪を隠蔽し自己愛(ナルシシズム)を涵養する衣装へと変化していく。

だからこそ、社会人はお金を稼ごうとする。

お金は文明社会で暮らすのに必須という以上に、お金は、サラリーマンのスーツが外向きなものとするならば、内的に社会の中で自身をポジションを確保するための足がかりになっている。だから、お金がないと、暮らしていけないという現実の不安に、アイデンティティの喪失という心理的な不安が加わって、大きな重圧になってしまう。

お金を稼ぐことができれば、アイデンティティを確保することができて自己愛が満たされる。自己愛が満たされると自己嫌悪を隠蔽できますから、生きづらさを感じなくて済みます。

現代の教育の大半が自己嫌悪を増大させるシステマチックなハラスメントになってしまうのは、自己嫌悪隠蔽の方法論を教え込むことを主眼にしているからです。

ハラスメントというものは、それがハラスメントだと相手に認識されている時点で、実はハラスメントとしては不完全です。完全なハラスメントとは、端的に言えば洗脳。相手にそれがハラスメントとだと気づかせてはいけない。


・・・・・


話が脱線しそうなので、強制的に元に戻します。


上掲書の71ページより。

 物語とつながりが切れる——文脈毀損コスト
 文脈毀損コストとは、交換において生じる人間同士のつながりと、交換財の引き継ぐ物語(歴史)等の文脈を貨幣取引により毀損するコストです。ここで文脈とは、平たく言うと交換を通してできる人間同士でのつながりと、交換財が引き継ぐ物語または歴史のことです。そして、貨幣の本質的な問題は、実はここにあります。貨幣というのは数字で表します。価値というのは文脈を保全しているのであって、「誰が幾ら」としてしまうと、分断が起こってしまいます。

 文脈があればあるほど、価値のあるものが伝わります。今世紀になって必要なのはつながりと物語であり、文脈があればあるほど価値があるのです。

貨幣の本質的な問題は文脈の毀損にある。

本質を突いていると思いますが、文章全体では突き損ねてしまっていると考えます。貨幣が分断するもっとも価値ある「文脈」が除外されているからです。

文脈とは、物語あるいは歴史のこと。
では、もっとも価値ある物語あるいは歴史とはなにか。

そんなもの、「人生」に決まってます。

交換することが不可能な人間それぞれの物語あるいは歴史。けれど、人間は経済のなかでしか生きていくことはできない。貨幣経済であろうが物々交換経済であろうが、です。

なかでも貨幣経済は「分断するもの」が鍵となっている経済の形。そうした経済の中で、人生そのものを分断されてしまう人間が出現しないわけがない。

お金によって人生が【分断】されてしまう。

ぼくを含めて、そう感じている人間は存在する。それも多数。大多数。
これは推測ではなく、断言でいいはずです。


だからこそ、ぼくたちはお金が必要だと考える。
人生を【分断】されないために。
お金で幸福は買えないけれど、お金がある程度あれば、分断されずに済むから。

でも、よく考えてみればおかしな話です。
分断されないために「分断するもの」が必要だなんて。

ここは哲学の場ですから、よくよく考えてみたいわけです。


〈しあわせ〉の哲学では、幸福を〈しあわせ〉と〔幸福〕のふたつに分けて考えます。

人生という物語の【分断】という視点で〈しあわせ〉と〔幸福〕をみれば、

〈しあわせ〉とは、【分断】されることなく人生の物語がつづられること
〔幸福〕とは【分断】された人生の物語を別のもので補いをつけること

本当に欲しかったものを手に入れるのが〈しあわせ〉。それからすれば、〔幸福〕は代替物。だからすなわち〔幸福〕を手に入れようとするのは代償行為でしかない。ところが現代は、その代償行為の方しか教えてくれない。

もっとも〈しあわせ〉は、そもそも「教えること」が不可能なものなのですが。



そろそろ、タイトルのところへ戻りましょう。

お金で買えないものをなくす方法。


現行のお金は、基本的に、「分断するもの」です。
基本的に、というのは、使い方によっては(自他の)人生を接続することにも使えるから。社会のために起業したいと志す社会起業家の皆さんは、「分断するもの」を応用して使いこなそうとしている人たちだと言ってよいと思います。

ただ、これは、想像ですが、そのように志を持たれている方ほど、お金の「分断するもの」という基本特性を嫌というほど実感しているのではないか。


一方で、技術が進んだ現代では、これまで困難だった「新しいお金」のデザインのハードルが下がっています。

それらを考え合わせれば、基本特性が「分断するもの」ではなく、「接続するもの」であるようなお金のデザインも可能がなのではないか、と想像をしています。

そして、「接続するもの」であるお金においては、買えないものなどないだとうと想像する。だからつまり、「お金で買えないものをなくす方法」とは、「買えないものがないようなお金を創造する」ということ。

頓知のようですけれど。


人生という物語が【分断】されることなくつむがれ続けることは〈しあわせ〉なことです。でも、残念なことに、誰もが、そうそう幸運にいくものではない。

【分断】にはさまざまな原因があります。100パーセント回避することは不可能だし、また100パーセントの回避ができたとして、それが幸福かという問題もある。

人生において、躓くことは決して悪いことではない。問題は「起き上がり方」です。いかにして起き上がるかが大切なところ。そして、もうひとつは環境。

躓いた者がいたとして、その者の暮らしが【分断するもの】に支えられているのがいいか、それとも〈接続するもの〉によって支えられているのがいいか。

答えは深く考えるまでもありません。
深く考えるべきは、なぜ、ぼくたちの暮らしが【分断するもの】によって支えられるようになったのか、いえ、支配されるようになったのか、というところです。

ここのところを追究して、〈接続するもの〉によって支えられるような社会環境へと切りかえていく方法を考えてみたい。

〈接続するもの〉によって支えられる社会は、きっと〈しあわせ〉な社会に違いない。

だから、〈しあわせ〉の哲学です。

感じるままに。